2003年1月


1月1日

年が明け、恒例の初日の出を眺めに行ったんですが…。
この日朝から空が分厚い雲に覆われてしまっていて、結局初日の出を拝むことは出来ませんでした(涙。あのクソ寒い中、利根川の堤防の上で8時まで1時間20分ほど粘ったんだけどなぁ…。


しかし昼の10時ぐらいには晴れだしてきてガッデム。
…まぁ、正月から青空が見えただけでもよしとするべきか。


そうそう、初夢にフォースが出たんですよ。
シルクで対戦している夢で、僕はなぜかライDを使っていました。しかもAHO(計器全消し)。
何故w?
…やはりAHOライDあたりのネタプレイが、去年の僕を一番象徴しているということなのか(苦笑。


さて、今年はどうなるかな…。
願わくば、漫然とせず、感動の多い年となりますように…。


1月2〜8日

この一週間、色々なことがあって僕にとっての世界の色が大きく変わった。
思う所があまりにも多すぎて、いちいち書いていくとキリが無いので主観は必要最低限、できる限り淡々と書いていこうと思う。

2日>
朝7時30分頃、母方の実家(所在は神奈川県茅ヶ崎市。群馬県館林市にある僕の実家から100km以上離れている)から電話がかかる。曰く、「祖父が倒れた」。
母が血相を変えて実家に向かおうとするのを見て、僕も同行することに。実はこの時「ここでもし出て行かなかったら、一生後悔する」予感がしていてそれに突き動かされたのだが、後にこの予感は的中することになる。

10時30分頃、祖父が収容された病院へ。ここで担当の医師の説明に絶句する。
曰く「発見された時には既に心肺停止状態。現在一応蘇生はしているが、自発呼吸はなく人工呼吸器で呼吸をしている状態。心肺停止状態が長かった可能性があり、脳の機能が回復する見込みがほとんど無い」。
要するに、「あなたの祖父はほとんど死んでいます。心の準備をしていてください」というニュアンスだった。
その後ICUに収容された祖父に面会。既に意識は無く、人工呼吸器で呼吸は出来ているものの時おり激しく痙攣する。これは後に低酸素脳症の症状だと聞いた。顔には倒れたときに出来たと思しき怪我があり、その姿は目を背けたくなるほど痛々しかった。

病院を後にした僕たちは、一人で待っている祖母の下に向かった。入院手続きのために母が病院へと向かっている間、僕は祖母といろいろ話をした。
祖母は少しボケてはいたが、このときは祖父が死にかけていることを静かに、確実に受け入れた気がした。そしてこんな一言を漏らした。
「入院して寝たきりになって死んでいくよりも、すぐに死んでいく方が幸せだよ」

祖父はしっかりした人で、自分にいつ何があってもいいように色々なものを残していた(銀行の口座の情報を記したノートなど)。それらを探している時に、つい昨日祖父が僕らに渡すために支度しておいたというお年玉が出てきた。祖父はそれを僕らに渡すのを楽しみにしていたという。
いつもは中身だけ受け取って、袋を祖父に返していたので、今度も袋を祖父の机の上に置こうとしたら、母が「もう次は無いよ。形見だと思って袋ももらっておきな」と言ってきた。

18時過ぎ、車で実家から走ってきた父と弟がようやく到着。
その足で全員で病院に向かう。そこで祖父をICUから個室へと移すことになり、必要なものを取りに行く前に全員で再度祖父と面会。
この時は自発呼吸が再開し、さっきよりは希望が持てた。
僕はここで申し訳ないとは思いながら、修論を書くために群馬の実家へと撤収することにした。19時30分頃、茅ヶ崎を発つ。

そのすぐ後に、祖父が亡くなった。

まるで、家族全員に再会して安心したかのような息の引き取り方だと、帰りの電車の中で思った。

3日>
昼頃にお通夜と告別式の日取りが、5〜6日に決まったとの連絡を受ける。
その際のスーツが無かったので急遽買いに行こうかと思ったのだが、雪が降ってきて結局出られなかった。
修論は大して進まなかった。夜になって、父と弟が荷物を取りに帰ってくる。

4日>
早朝父と弟が茅ヶ崎へ。僕はスーツを買いに出かける。すでにこのとき風邪を引きかけており、鼻と喉の具合がおかしかった。
スーツを買いに行ったアピタ館林店がなぜか妙に居心地よく感じた。おもわず長居をしてしまう。

家に帰ると母が戻ってきていた。母は荷物を取りに着ただけですぐに茅ヶ崎に戻るといい、祖父の略歴を記した紙のコピーを僕に頼んだ。

近所にある父方の祖父宅で夕飯をご馳走になり、翌日の泊り込みに備えて荷造りする。

5日>
この日はお通夜。
昼頃に茅ヶ崎の斎場に行く。そこで柩におさまった祖父と再会。
横浜から叔父さんが手伝いに来てくれていて、僕は会場では香典の会計を任される。
お通夜には祖母が来た。会場参列者が帰った後、祖母が祖父に語りかけて曰く「わたしもすぐにそっちに行くからね」。
やっぱり祖母は、祖父の死をちゃんと受け入れているようだった。

相変わらず修論を持込だったため、この日は川崎市登戸にある弟の部屋に一泊する(母の実家は祖母が早く寝てしまうため、夜の作業がやりにくいのだ)。
作業の傍ら、ガンダムSEEDのビデオを眺めたり、ケミカル風味の栄養ドリンクについて談義をかわしたり色々。久しぶりに肩の力を抜いたような気がした。

が、毛布があったとはいえ床で寝たので、風邪がさらに悪化する。

6日>
告別式と火葬の日。高齢の祖母は、先日の疲労のため参列できなかった。
葬儀に参列していてずっと思っていたことは、「こんなことしていないで、早くじいさんを焼いてあげたい」だった。祖父はもうかれこれ4日間も屍のままであり、いい加減あの世に帰してやりたかった。…今思うと、何でこんな風に思ったのかわからないが。
坊さんがお経の合間に、極楽浄土についての講話のようなものを祖父に語りかける形式で話していた。極楽には苦しみも悲しみも無く、ただ永遠に続く幸福だけがある、とそんな感じの内容だったが、僕はそれを聞いて「極楽なんぞには絶対行きたくない」とかなり本気で思った。坊さんには申し訳ないが、山も谷も無い永遠の幸福なんぞに放り込まれたら、三日と経たずにダメになりそうだ。僕にとっては拷問に等しい。それなら今のままでいい。

出棺の時、ようやく焼いてやれるとほっとしていた。

火葬場で見上げた空は、よく晴れ渡っていた。祖父が帰っていくのには、これ以上ないほど綺麗な空だった。
その間参列者の待合室で、坊さんを交えて話をしつつ待機。
ここで坊さんが語った言葉を聞いて、やはり僕は世間一般の基準からかなり外れたものの考え方をするのだと思った(わざわざ敵を作って、それをやりこめることで不幸で乱れた心の平穏を取り戻すという行為は、面倒な上に不毛でとてもやる気にならない)。

炉から出てきた祖父は、完全に白骨になっていた。
ただその骨は思った以上にしっかりと残っていて、「高齢の割りには、骨がしっかり残ってますね」と坊さんも感心していた。
祖父は毎日牛乳を飲み、その他の乳製品も口にしていた(後で知った話では、この習慣をもう何十年も続けていたという)。そのせいか骨格がかなりしっかりしていたらしい。
骨壷一杯に収められた祖父を抱いて、お清めの場所へと向かう。

お清めの席で、僕はビールを飲みまくった。
祖父の遺影がこっちを向いているので、しけた飲み方をしたくなかったのだ。
その結果、後になって頭痛に悩まされたがまあいいとした。

お清めの後、僕は祖父愛用の将棋板と駒を捜した。
弟の部屋で寝るときに、僕が小さかった時、祖父が回り将棋で遊んでくれたことを思い出したのだ。かなり年季の入った将棋板だったから、祖父も相当使い込んでいたんだろうと思えた。一度は見つからずに捜索を諦めたが、暫くして別の場所から見つかる。
僕は後でこれを焼こうと思っていたが、親は「形見でもらっておけ」というので取っておくことにする。とりあえず、遺影と骨壷と位牌を並べた簡易祭壇に供えた。

祖母の面倒を見るために残るという母を残し、僕と弟は父の運転する車で群馬の実家へ。
車内でエアエッジを起動してみたら、ちゃんとインターネットに入れた(高速運転になるとさすがに厳しくなったが)。それで渋滞情報を受信しながら、首都高経由で実家へ向かう。
横浜から羽田、葛西を経由。夜景が綺麗だった。思ったよりも周りの車がスピードを出しており、その様子はリアルリッジレーサー。
最後には東北自動車道に入って館林着。3時間弱で着いた。

7日>
仙台に帰る日。
「仙台まで乗せていく」と言う父の申し出を断り(ただでさえ負担がかかっているのに、これ以上ムリをされて万一があったらたまらないので)、電車で仙台に戻る。
途中、過去にちょっとだけ縁があって時々足を伸ばしていた東大宮に寄っていった。もうずいぶん久しぶりになる。3年ぶりか。
この時すさまじい大荷物で、できればコインロッカーに預けていきたかったが、東大宮駅になんとコインロッカーが無く、体重三割増モードで東大宮を歩くハメに。
ただ、この手の展開を通じて、なんとなく元の生活に戻ってきたような気がしてきた。

8日>
風邪がひどく、学校に行けなかった。自宅で療養の傍ら、修論と学会の資料を作る。
途中K氏から連絡が入る。「学会のOHPは全部英語で作ってくれって」

僕「それって、つまり、隅から隅まで英語なわけですか」
K「イエス!」
僕「緒言とか実験方法も、やっぱり英語なんですか」
K「イエース!」
僕「…マジっスか(涙」
K「つーかオレのOHP、もう日本語が全然残ってないよ」

一瞬眩暈がしたものの、ここ一週間のごたごたを思えばどうってことないのに気がつく。
単に日本語で書いてあるのを英語に直せばいいだけだし。


最後にメモ。これは未来の自分にしかわからなくていい。
祖父を荼毘に付した時、頭の中で流れていた曲は「Pilot Song」だった。
その意味とそのときの気持ちを、これを見たときにでも思い出して欲しい。


1月20日

修論がひとまず一段落…。
まだまだゴールは先ですが、こうして日記を書ける余裕がかろうじて復活した今日この頃。

ホント、この10日間ぐらい修論以外に何があったのかほとんど思い出せないぐらい一杯一杯でした。


今日のダイジェスト>
午前中は学会発表の練習。まあまあな上達を達成(謎。

午後は論文を先生に見せるためのまとめ作業。本当は参考文献の注釈とかもきちんと入れてしまいたかったのですが、色々と面倒事があって結局間に合いませんでした(涙。

面倒事の例>
図面のファイルがなぜか壊れているので作り直し。
作ったつもりの図面が実は存在してなくて慌てて作成。
実験装置の写真を入れるつもりが、ケチって低画質で撮ったばかりに画像が粗すぎて使い物にならず。写真撮り直し。
やっとのことで作った図面の数が、いつの間にかとんでもない量(なんか本文の倍ぐらいあったんですが(滝汗))になっており整理に難儀。
などなど。

図面と格闘するだけで半日潰れるというのはすさまじい誤算だった…。


さて、昨日唐突にですが、「歌を歌う行為」で元気を取り戻せる、ということを思い出しまして。
さすがに研究室で歌うわけにもいきませんが、頭の中で昔好きだった歌を時々リフレインさせているだけでも精神的にだいぶ楽になりました。
なんか、体の奥の方から力が湧いてくるというか…なんなんでしょうね。この感じ。

今は全然歌というものを聴かなくなってしまったからなぁ…。
たまには中古のCDでもあさりに行くか(VGMやインスト以外のやつを)…。


1月22日

学会に参加するために、鹿児島に飛行機で移動。
ルートは仙台空港→伊丹空港→鹿児島空港でした。


仙台空港へは、電車で館腰駅まで行ってそこから連絡バスを使うルートでした。なんつーか、仙台市内からのリムジンバスは、時間的に不安定な気がしたもんで。
んで、空港に着いてそのままふらりと搭乗手続きを済ませた僕に、恨みがましい声がかかったわけです。

友人K氏「…そんなにオレの隣の席は嫌か」

そういえば、二人一緒に手続きすれば、席を並びにしてくれるとか言ってたっけ。いや悪気はなかったんだKちゃん。ここ最近飛行機に乗るときはずっと一人だったから、ついやっちまったんだ(汗。
僕「スイマセンスイマセンスイマセンス(以下略」

K氏はその後、座席を変更してもらって僕の隣の席になりました。
しかし…そうまでして隣の席にしたいか?
ちなみにK氏をはじめこの日に一緒に鹿児島まで行くメンバーは、そのほとんどが1〜2時間前に仙台空港入りしていたとか(汗。

飛行機の機上で窓からずっと外を眺めている僕。
その隣でシャドー発表練習をしているK氏。
時々K氏が「今どの辺?」とか声をかけてくるので、こっちもわかる範囲で答えてやるわけです(山の形や湖、地形などで、富士山のあたりまではどこを飛んでいるのか結構見当がつくのです)。確か、日光(中禅寺湖上空)から渋川・前橋に抜けて、榛名山の南を通って行ったんですよ。
山のあたりは雪で真っ白でした。

伊丹に着くころには、K氏爆睡。
着陸前、新大阪駅から大阪駅にかけてのエリアをかなり低空でフライパス(しかもどんどん高度を落としながら)したので、結構怖いものがありました(汗。

伊丹で昼飯にして、鹿児島へ。その道中僕も爆睡。
鹿児島空港から市内までは、バスで1時間弱。その道中で僕も少しだけ発表手順の確認。
で、まずは先に学会の会場を確認しに行ったわけです。


ここで、先に鹿児島入りしている助教授の先生を探しに行ったK氏が憤慨。
K氏「なんかさー、みんなOHPが日本語なんだけど」
それを聞いた僕はぐんにゃり。
僕「マジ?…じゃあ、必死こいて英語のOHPを作っていたウチらの苦労は徒労じゃねーか(涙」
K氏「サギだよなぁ(涙。この作業がなけりゃ、修論書く時間がもっと取れたのに」
…まぁ、この手の展開は毎度のことだし今更とやかくは言わないが。

そこではたと気がつく。
なんでこんな展開が「毎度のこと」になっているんだろうか。

考えるのが途中で面倒になり中断。


結局先生は見つからず、先に宿まで移動することにしたわけです。
道中1月だというのに既に菜の花が咲いているのを見かけ、やはり南国だということを認識。
あと、会場からは桜島がよく見えまして。山の上にうっすらと噴煙をたたえているのが見えました。


その後土産を買って晩飯。
僕はテキトーに牛丼でも食おうかと思っていたんですが、なぜかくっついてきたK氏が強硬に反発したために飯屋を探す羽目になりました。
K氏「お前、何が悲しくて、こんな滅多に来られないような所まで来て牛丼を食わなけりゃならないんだ?なんかその発想根本的に間違ってるぞ」
僕「つっても、鹿児島の料理なんか何も知らないんだが」
とかなんとか言いながらアーケードをうろつくこと暫く。結局そこで見つけた定食屋に入り込んだわけです。
僕はさつま揚げ定食を、K氏はソースカツ定食を注文。

帰りにちょびっとだけゲーセンに(僕「すまん、1ポップンだけやらせてくれ。6分ぐらいで終わるから」)。
ところがポップンには先客がいました。ベージュのセーターを着たお姉さんが、ウインターダンスのハイパーをハイスピード4で叩いておりました。
まぁこのくらいなら、僕にもどうにかなりそうだーと思っていたら、隣でK氏が目を皿にしていまして。

K氏「手が人間の動きじゃないんですけど(汗」

お姉さんは最後にガールズロックハイパーを叩き、さすがに力及ばずゲームオーバーでした。
それを見ていたK氏は「(速過ぎて)もう線しか見えないんですけど(滝汗」とおっしゃっていました。
んで僕が続いて<パワーフォークライブハイパー→スカ(ポプ6)ハイパー→トランスハイパー>と軽く叩いてみたら、K氏こんなことを言うんですよ。
K氏「こんなの黄昏君じゃない!いつも一人でのんびり缶コーヒー飲みながら、遠い目をして溜息ついてる黄昏君じゃない!」
僕「いやー、そんなこと言われても僕は紛れもなく黄昏君なわけですが」
K氏「嘘だ〜!オレの知っている黄昏は、あんなに速い手の動きは出来ない!」
僕「いやー、ポップン4年もやってれば、さすがにあのくらいは」

そういや、すでにバーチャロンより年季が入っているんだなポップンって(汗。>チャロンは新シリーズがでる度にやっているものの断続的。ポップンは継続的に4年。
んで最後には「アシュラマンになっても、オレにはポッポンでお前に勝てる自信がない」とか言われちゃいました。

その後は持ち込んだPCで修論を書き、寝る前に発表練習して、わりと早く寝ちゃいました。
全然緊張とかしなかったけど、むしろ大丈夫なのか…?


1月23日

結論から言うと、この日は面白すぎでした。


朝は雨。宿からはみんなでタクシーにて会場に移動。
ちょい遅刻気味に会場着。
結構眠気が残っておりまして、ちゃんとまともな発表になるのかどうか自分でも不安だったんですが、まぁなんとか自分の分の発表はどうにか終わりに出来ました。自分の分は。

K氏は発表の締めで芋ってしまい、会場から撤収する時にスゲー勢いで愚痴ってましたが。

西鹿児島駅までタクシーで移動し、そこでバスの時間を確認して昼飯。今回は黒豚チャーシューメンでした。
K氏はやはり、「ここでジョイフルに入ろうとか言うのは却下な」と釘をさしてくれました。
それはさておき黒豚チャーシューメンはなかなかうまかったです。
あと、K氏が鹿児島の焼酎(なんか外用と地元向けの二種類があるそうで、K氏は地元向けの方が欲しかったらしい)を買ったせいでバスの時間に間に合わなくなりかけた、というミクロなハプニングもありましたが。
この酒屋のお姉さんが面白い人だったらしく、K氏に向かって「焼酎をロックで飲むなんて水といっしょよ!やっぱりお湯割りよ、お湯割り!」などと焼酎の飲み方について熱く語ってくれたとか何とか。


さてその後鹿児島空港まで移動し、搭乗手続きをしようとしたところで何かが発生。
カウンターのお姉さんが、なんか泡食った表情で端末を必死に操作してまして。
何かおかしいな、と思っていたら、渡したクーポンチケットを示されて一言。

「すいません、仙台空港は今雪が降ってまして、ちょっと様子見なんですよ」

それで伊丹から先、飛行機が飛ぶかどうかわからないんですけど、というコメントを、「あーあ、やっちまったか」と僕は苦笑いしながら聞き、まだ仕事を多く残していて一刻も早く仙台に辿り着きたかったK氏は、今にも死にそうな顔で聞いていました。

一応、手荷物は伊丹までということで預けまして。

出発ロビーで、同じ便で帰る助手の先生達と合流。なんか出発ゲートが変わったとか色々あって、慌しく改札を通ろうとしたら、なんか切符が入っていかずに弾き出されるんですよ。
何事かと思ったら、改札のお姉さんが「もしかして、伊丹から乗り継ぎですか?」

結局、仙台行きの便は欠航だったそうです。伊丹までは行っちゃったんですが。

んで、この時点で選択肢が2つあったわけで。
・ムリして仙台まで帰らず、大阪に一泊する。
・新幹線を使ってムリヤリ帰る。
僕はムリに帰らなくても、パソコンを携帯してたので修論をその場で書けるというのもあり、大阪一泊を割と本気で考えていたんですが、なんか「代わりに羽田までの便を抑えておくので、それで東京まで移動して帰る」という案が提示され、結局みんなそのルートを選んだわけです。
ただし、その際の航空運賃と電車代は立替で、財布の中身が大ピンチになる罠。
おまけに仙台までのチケットは、この時点では払い戻しできなかったというダブル罠。
半ば切れかけていたK氏はついにカード発動。


空港にあったバーで、夕方から酒盛りを始めるハイテンションなわしら。

その時に「新幹線の予約とか取った方がいい」という話になり、僕のPC(Air H"装備)がオンライン予約に駆り出されるも時間が足りず失敗。
つーか32Kパケットの遅さをここまで恨めしく思ったことはなかったわね(涙。

結局羽田にて、新幹線の指定席をゲットすることに成功。なんとか新幹線は動いていたので、それに乗って夜9時過ぎに雪の仙台に戻って来れました。


つーか波乱万丈すぎる学会でした。
色々な意味で忘れられない思い出になりましたとも。ええ(涙。
ちなみにこの後K氏は家に帰らず、研究室に行って徹夜で仕事を進めていたんだそうな。マジお疲れ様でした。


1月31日

副査の教授に修論を出してきました。

修論の副査ってのは二人いて、そのうち一人は山の上にある古巣の研究室の教授でした。
忙しい人でほとんど学校にいないんですが、たまたまこの日は講義がある関係でいらしているということなので、山の上まで修論を持って直接手渡ししてきたわけです。したらその教授、修論の話はそこそこに、僕の就職について長々と話を始めまして。

「従業員1000人規模か…こりゃ危ない会社だな」
「え(汗」
「社長がワンマンじゃないかね?」
「ええ、時々送られてくる社内報とかを読む限りじゃ、そんな感じではありますね」
「その価値観の中で頑張れる分にはいいけど、もしその価値観に自分が合わないと辛いことになるだろうね。その辺の覚悟はしておいた方がいい」

なんでも、従業員数がある程度の数に達していない会社は、その中の価値観にそぐわない社員にとってはしんどい環境になるのだとか。例えば社員の家族に自社製品の高い買い物をさせて、それを拒否したら待遇が悪くなるとか。ボーダーは大体3000人程度で、そのくらいまで多ければ多少上と価値観が食い違っても、緩衝作用が働くようになるとのことでした。

「もし辛くなってどうしてもダメだと思ったら、早めに辞めた方がいいよ」
「…まあ、本当にダメになったら辞めますけど、でもあの会社は自分で本当に行きたいと思って選んだ会社なんで…なんとか頑張ってみたいです」

モノづくりが好きな自分が選んだモノづくり会社だからなぁ。
自分が生きがいに出来そうだと思った仕事内容なわけだから、あまり些細なことで手放したくはないもんだと話をしながら思ったわけです。
ネットを色々見ていると、確かに色々な価値観があって、その中にはとても自分がついていけそうにないと思えるものもあります。現実世界もまた然り。そりゃもうどうしようもない話なので、どうしようもない以上はうまく付き合う方法を模索していくしかないと。

その類の強さやら知恵やらが欲しいわけです。

「会社を辞めた後の一番簡単な出直し方は、大学に戻ることだから。もし何かあったら遠慮なく私に連絡して」と、別れ際に教授は言ってくれたんですが、その選択肢は「その時」が来るまで忘れることにします教授。申し訳ないんですが。
そんなものを前提にして社会に出たら、僕は絶対どこかでダメになります。

自分の中で、まぁ気持ちだけ受け取っておきますっていうことにしたところで、教授が昼飯を食べに行くということでその場は解散でした。

今のところ、違う価値観の人間とうまくやっていけてるかと問われると、答えは「NO」。
具体的には、向こうから何かしらの価値観を押し付けられるようなこと(理解を求められること、とは違う)をされると、その瞬間全身全霊を駆使するような勢いで猛反発しちまうわけです。この辺が弱点なのかもしれない。なんかフォースをやるときにも、この我慢のなさが仇になることが多いしなぁ(涙。

相互理解、か。結局はこの漢字4文字に行き着くわけだ。
そいつをどうやったらいいかは、今までの自分の経験の中から、自分なりのやり方を生み出せるだけの蓄積ぐらいあるだろう。後は、どう組み立てるかに知恵を絞る。そして実行する勇気。
必要なものは、やっぱり知恵と勇気ですか。

といいつつも、考えすぎて向こうの価値観に飲み込まれることを拒絶する自分が確かにいるので、根本的なところでつまずくわけです。はぁ。


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