「――バイパーが生きている――」
あの夜の出来事は、俺とジェームスの心の何かに火をつけた。
何とかして、バイパーとコミュニケーションをとってみたくなったのだ。
最初はフェンス越しに、モールスの発行信号を使ってみたり、指向性スピーカーでがなりたてたりしてみた。だがそれだけではバイパーの反応が良くわからなかった(センサーやカメラアイが時々光るのだが、それが俺らに対して光っているのか、それとも他の何かに反応しているのかわからないのだ)。距離を置いてのコミュニケーションではうまく行きそうにないと思った俺達は、なんとかしてフェンスを乗り越え、機体に直接コンピュータを繋いだりしてどうにかできないかと考えた。
だが、バイパーを囲むフェンスや監視網は、俺達素人の手に負えるようなものではなさそうに見えた。結局のところ、音や電波、レーザー通信などいろいろな媒体で呼びかけてみて、向こうから回線を繋いでくれるのをひたすら待つ、といったやたら消極的な手段しか取ることができなかった。
むろん、それらはことごとく失敗に終わった。
それでもジェームスの奴は、なんとかバイパーのメインコンピュータにアクセスできないかと息巻いている。来る日も来る日も自前の機材をいじくり回して通信媒体やプロトコルを変更し、毎日のように出かけて行ってはバイパーに呼びかけていた。それは今なお続いている。
そんなジェームスの頑張りはたいしたものだと思ったが、その一方で、俺は何かが根本的に間違っているような感覚にとらわれ始めていた。
バイパーの側は、そもそも俺達とコミュニケーションをとるつもりがあるのだろうか。
俺達がやっていることは、いわゆる「北風と太陽」の北風なのではないのか。
最近とみに、そう感じるようになってきた。
一方フェイは、金欠の俺達が対戦に行けないせいか、時おりバイパーのところに顔を出すようになっていた。
彼女がこの街のどこに宿を取っているのか、一体いつまでこの街に逗留するのか、彼女自身は喋ろうとはしなかったが、少なくともすぐにいなくなるような様子ではなかった。時々ふらりと俺達が「実験」しているところに現れては、(主にジェームスと)話をしたり、バイパーの様子をじっと観察したりして、やがてふらりと姿を消していく。
ただ、フェイがバイパーを見る目が「珍しいものを見る目」ではなく、「何かをじっと観察する研究者の目」に近いような気がするのは気のせいだろうか。
そんなことが一月近くも続いたある日。
俺は自分の運命を大きく変える、その人物に出会った。
「すいませんが」
匠がいつものようにジェームスの実験に付き合うため、緑地帯へと自転車を走らせていると、道中唐突に背後から声がかかった。女性の声だ。
「はい?」と返事して自転車を止め、背後を振り返ると、黒塗りの自動車の窓をあけ、20代後半と思しきグレーのスーツ姿の女性が顔を覗かせていた。髪をオールバックにし、前髪をふた房だけ下ろしている。その髪の色はブロンドだが、一部色が抜けているのか、白い線があるメッシュになっていた。
しかし黒塗りのごつい車に似合わず、その女性はあまり化粧の類をしているようには見えず、わずかに見える服装も「上流階級然」としたものではないように感じた。ただその目は、穏やかな中にも鋭い何かを秘めているような気が、なぜかはわからないがした。
「このあたりに先日バイパーが墜落したと聞いたのですが、それはどちらに行くと見られるでしょうか」
「バイパーですか…ちょっと待って下さい」
あの日以来、時々こうして外からバイパーを一目見ようという来客が街に訪れるようになった。
匠も何度かこういった来訪者に道案内をしてきたため、もう大体の要領は掴めてきていた。携帯端末を取り出すと現在地周辺の地図を表示し、その上に目的地の座標を重ねて表示する。
「今いる場所がここで、バイパーがある緑地帯はこの道をまっすぐ行って、三つ目の信号を左に曲がって直進です。ただ緑地帯の入り口からは車が入れなくなりますから」
「そのあたりに、駐車場はありますか?」
「すぐわかるところに駐車場はあります。ただバイパーは緑地帯のちょっと奥の方にありまして、そこに行くまでに結構ややこしい道を通らないといけないので…。案内の看板とかも何も無いですし。
もしよかったら、向こうで待っていてもらえれば緑地帯の入り口から先は俺が案内しますけど?ちょうど俺も、今からバイパーのところに行くところですので」
匠がそう答えると、その女性はしばらく何かを考えるようにうつむいた後、
「君は、バイパーの所には頻繁に足を運んでいるのですか?」
「ええ、割とよく出かけています」
「そうですか…」
そう言って再び沈黙した女性の様子を見て、匠は「なにかまずい事を喋ったか?」と内心冷や汗を垂らした。そういえばこの車自体、庶民の住宅地然としたこの街にはあまり似合わない。窓ガラスは黒いシールドが全面張られており、外から中を見通すことはできないが、この様子だと屈強な男が何人か同乗していてもおかしくない。
どこかの偉い人が、バイパーを視察にでも来たんだろうか…。そしてしょっちゅう見に行っている俺やジェームスは、何か咎められたりしやしないか。
そう思い冷や冷やしながら相手の出方を待っていた匠だったが、女性は予想を完全に裏切り、車のドアを開けて一人で外へと歩み出た。
「じゃあ、ここから案内してもらえるかな?」
おもむろにそう切り出してきた女性に、車の中から「一人で歩いていく気ですか?」「危険です、もし何かあったら」といった制止の声がかかる。だがその女性はただ一言、
「心配無用」
それだけで、野太い男達の声がぴたりと止んだ。
…もしかして、俺はなんだか大変な人と関わろうとしていないか?
「さて、行きましょうか…。ついでに道中、バイパーの話をゆっくり聞かせてもらえると嬉しいけど」
物腰はあくまで穏やかだったが、先ほど男達を一言で黙らせたのを見た匠は拒否などとてもできなかった。「は、はい。では行きましょうか」とぎこちない返事をするのが精一杯であった。
車がその場を去っていき、匠達が歩き出して少ししたところで、その女性は一枚の名刺を匠に差し出した。
「名乗らないのも失礼だったね。私はこういうものです」
「あ、ど、どうも…」
名刺を受け取って、そこに書かれている文字を読み取った匠は、今度こそ驚愕のあまり言葉を失った。
そこには「第6プラントVR開発課 技術部部長」という肩書きが示されていたからだ。
「ジーラ・リヒターといいます。どうぞよろしく」
ジーラと名乗った女性は、ガチガチに固まった匠に笑いかけながら言った。
その笑みは確かに柔らかかったが、その一方でなぜか、作り物めいた笑みであるような感じを匠は感じていた。
ほぼ同時刻。
匠達がいる街からはるか西、かつてカナダと呼ばれた地域の広大な針葉樹林のなかにあるRNA駐屯地。そこにあるVR格納庫の中に、航空機のフォルムを持つ異様なVRが搬入されていた。その数3体。
シルエットは完全に戦闘機、それも異形の戦闘機である。機首部分は槍のように鋭く尖り、その後ろには扁平な胴体が繋がっている。その胴体の両サイドにはビームランチャーと思しき4本の鋭い突起があり、それらは機首と平行に正面を向いていた。胴体後部には主翼と垂直尾翼がそれぞれ2枚ずつ付いてはいるが、主翼はかなり小ぶりで、とても空力を使った飛び方ができるとは思えない代物だった。そして胴体の後ろから突き出すように、オーバーサイズとも思えるような巨大なメインエンジンが2本備わっていた。
胴体後部に付いているVコンバーターが見えなければ、誰もこの戦闘機をVRだとは思わないだろう。それほどまでに、従来のVRとはまったく趣を異にしている機体だった。
格納庫に収納されているアファームドやi-ドルカスといった、RNAに以前から配備されている機体を整備していた作業員達は、事前にこの機体が搬入されることを知らされてはいた。だが実際にその姿を目の当たりにすると、ある者はあまりにも他の機体からかけ離れたその姿につい見入ってしまい、またある者は限られた格納庫スペースがわけのわからない機体に占領されることで腹立たしくなっていた。結果、「その機体」が来てからの作業効率はいつもと比べて若干ではあるが、落ちていた。
「結局なんだってんだよ、この玩具みたいなVRは」
休憩時間、ある若い整備員は毎日のようにそう愚痴っていた。航空機と同じく横に寝るように置かれているので、直立状態で固定してある他のVR以上に平面のスペースを食ってしまい、機体や補修材、機材を動かすときに邪魔でしょうがないのである。
かといって、機体そのものにはどういったわけか「手を触れるな」という通達が来ており、ヘタに動かすこともできない。その理不尽さから来るストレスは相当なものだった。
「上層部向けのプレゼンでもなんでも、さっさとやって持ち帰ってほしいもんだ。普段の作業の邪魔でしょうがない」
「そう愚痴をたれるな」
やや年上の整備員が、若い整備員をたしなめる。ここ最近幾度となく繰り返されてきたやりとりだ。
「いずれ俺達が、こいつを整備する日が来るかもしれないんだぜ。今のうちに見ておくだけでも十分勉強になると思うけどな」
「でも、触れないんじゃどうしようもないじゃないですか」
「それでも、見ただけでなんとなく仕組みがわかる部分はあるだろ」
年上の整備員は、後部に突き出したメインエンジンを指差した。
「例えばあのメインエンジン、途中に妙な関節がある。他にもあちこち、無くてもよさそうなところに妙な関節やら可動部やらがある。たんなる戦闘機だったら必要なさそうな部分に、だ」
「噂だと変形するって話ですけどね」
若い整備員は面白くもなさそうに言った。
「ややこしいギミックが増えれば増えるほど、俺達の負担が増えるってのに…」
「それでも命令されれば整備しないわけにはいかない」
若い整備員とは対照的に、年上の整備員は口調が落ち着いていた。
「それが俺達の仕事だからな。そしてそれに速やかに対応するためには、観察できることからでもなんでも、情報を集めて中身を予測して、本番前に予習をしておいてそのときの負担を減らすようにすると、そういうわけだ」
当たり前のように言う年上の整備士の言葉を聞いて、若い整備士の表情は次第に脱力していった。
「…偉いなぁ、先輩は。俺にはとても真似できねぇ」
「技術屋として当たり前のことだ」
年上の整備員はそう言うと煙草に火をつけた。
「ま、俺的に残念ながら、もうじきこいつとはお別れらしいんだがな」
その時にはまだ、誰一人として搬入されたサイファーにある異変が起こっていることに気が付くものはいなかった。
もしこの場にバイパーのような高性能なセンサーを搭載する機体があったなら、3体のサイファーのうち1体から、異様な電磁波が放出されているのが観測されただろう。
そして、もしその電磁波を音声変換してみたら、まるで飢えた亡者があげる呪詛のように聞こえたはずだった。
まるで、何かを求めるかのように。
今はまだ、それはほんの小さなものでしかなかったが…。
「いよいよ明日か」
その年かさの男は、格納庫脇の窓から自身が持ち込んだ異形のVRを見下ろし、呟いた。
「RNA向けのプレゼンテーションは」
「そうですね。早いもんです。でもプレゼンの内容は練りに練りましたし、サイファーも新品の中で一番状態がいい奴を持ってきましたからね。テストパイロットも腕のいい奴を雇ったわけですし、大丈夫だと思うんですけど」
隣に控える、少年のような容貌の若い男が気楽な口調でそう言った。だが、年かさの男はその声がかすかに震えているのを見逃さなかった。
「緊張しているのかね?ミハイル君」
年かさの男は振り向きもせず言った。ミハイルと呼ばれた若い男は一瞬口ごもるが、すぐに苦笑を浮かべ、
「さすがに…俺たちのやり方ひとつで、RNAがサイファーを採用するかどうかが決まっちまうわけですからね。それを考えると、どうにも…」
「その心配は無用だ。RNAがサイファーを採用するのは事実上決定事項だし、実際プレゼンの場でしゃべるのは私の仕事だ。君の仕事は私の雑務の手伝いと、今後のための見学だ」
「それはわかっているんですけどね、どうにも落ち着かないもんで…」
ミハイルはどうしても落ち着かない様子だった。自分でなぜ落ち着かないのかがよくわかっていないのだろう。
ふと、年かさの男は「武者震い」という古い言葉を思い出した。
…私にも、こんな時代があったのだろうか。もう今となってはまったく思い出せない。過去を捨て去った、今の自分には。
窓の外にある異形のVR−「サイファー」を眺めながら、年かさの男がそんな感慨にふけっていると、しばらくしてミハイルが口を開いた。何かしゃべっていないと不安でしょうがないというように。
「しかし、全体を設計した本人がいないプレゼンっていうのも…」
その言葉を言い終わる前に、年かさの男はミハイルに向き直る。
その目には、射すくめるような鋭い光が宿っていた。まるで、ミハイルにその続きを口にすることを許さないとばかりに。
「ミハイル君。私の名前を言ってみたまえ」
「…は?」
突然鋭い眼光に射抜かれて萎縮してしまったミハイルに、追い討ちをかけるように年かさの男は言葉を重ねる。
「今すぐに、私の名前を言ってみたまえ」
「……」
ミハイルはしばらく口をもごもごと動かすだけで言葉を出すことができなかった。しばらくしてようやく、何かを思いついたかのように、絞り出すような声で彼の「名前」を口にした。
「あ…アイザーマン教授、です…」
いつものようにジェームスが緑地帯でバイパーとのコミュニケーションを試みていると、今日もフェイがどこからともなく現れた。その手にはビニールの手提げ袋を持っていて、上の口からスナック菓子の袋やジュースのボトルがはみ出しているのが見えた。
「お兄様お疲れー。差し入れ持って来たよー」
「サンクス。適当にその辺に置いといてくれ」
フェイはジェームスが指差した木の根元に袋を置くと、彼の横に寄ってきて、先ほどから調整している弁当箱ほどの機械を覗き込んだ。その機械には数本のコードが接続されていて、その先にはレーザー通信用のアンテナやバッテリーユニット、ラップトップコンピュータが繋がっていた。
「ナニナニ、今日はレーザー通信?」
横から聞こえてくるフェイの声に、ジェームスは振り向かずに答えた。
「ジャンク屋を漁りまくって、ようやくレーザー通信用のアンテナがしかもタダ同然で手に入ったんで、今日はこいつをバイパーのセンサーに向けて直接照射してみようと思う。バイパーも含めたVRでも使っているはずの通信手段だから、今までのやり方よりもいくらか希望が持てるんじゃないかと思うんだけどなー」
そういいながらジェームスはラップトップコンピュータを操作し、通信プロトコルの設定を行う。昨晩ネットの裏サイトで手に入れてきた軍用通信プログラムを立ち上げ、通信装置とリンク。テストランを何回か繰り返した後、メッセージ入力。
「これで、行けるといいんだが」
そう言いながらフェイを見ると、彼女はすでに木にもたれかかりながらじっとバイパーを見つめていた。こうなってしまうと、フェイはしばらく向こう側から「帰ってこない」。なぜか、話しかけても反応しないほどの恐ろしいまでの集中力でバイパーを見つめ続けるのだ。
ジェームスは訝しく思いながらも、今まであえて何をやっているのか尋ねることはしなかった。今日も「入ってしまった」フェイの姿を横目に、レーザーガンの軸をバイパーのセンサーに向け、キーボードのエンターキーを叩く。
レーザーは目に見えなかったが、コンピュータ上で処理された画像を見る限りではうまくセンサー部分に命中したようだった。
…しかし、そこまでだった。バイパーは確かにジェームスからのメッセージを受け取ったはずなのに、やはり何の反応も返してこない。ただ沈黙して、そこに佇むのみである。
「むぅ…やっぱダメなのか…?通信システムが死んじまっているのかね…」
…そんな適当なメッセージで、バイパーの興味を引けるとは思えないけどなぁ…。
レーザー通信の内容を「直接読み取った」フェイは、声に出さずにつぶやいた。
彼女はバイパー――正確にはその全身である、戦死したパイロットの性格を知っている。止むに止まれぬ事情で軍属となったそのパイロットは、しかし実のところ、あまり争いを好まない性格だった。むしろ自然の中で牧場でも営んでいる方が向いているような、穏やかな性格だったのだ。
今その「彼」は、ある意味待ち望んでいた世界で眠りについている。さぞかしいい夢だろうとフェイは思っていた。
…そんな彼に、軍用プロトコルで軍隊用語を羅列して聞かせても機嫌が悪くなるだけだってば、お兄様ぁ。
と、フェイは思っていたがあえて口に出さなかった。
それはそれとして、フェイもまた、バイパーには早く目覚めて欲しいと思っていた。
フェイ自身や姉妹達のように「意思を持たされたVR」は、その意思と引き換えに、生まれた時から必ず何かしらの宿命を背負わされている。しかもその宿命は人類の存亡に関わるほどに重大なものなのだ。
その重さに耐えかねて、今まで何度逃げ出そうと思ったか、もう自分でもわからない。
今ではもう、その宿命を受け入れ、立ち向かっていく決意はできている。だがその一方で、今でもなお「宿命に縛られない自由な生き方」に憧れる自分を感じてもいた。
そして、これ以上宿命に縛られる仲間が増えて欲しくないと、願っていた。
おそらく今後、意志を持つVRは少しずつ増えていくだろう。それが人の手によるものなのか、あるいはこのバイパーのように偶発的なものになるのかはわからないにしても。
だが、人のごとき「心」を持った存在は、もはや「道具」ではない。
彼らにも「自由に生きる」権利が必ずあるはずだ。
フェイは目の前のバイパーが目覚めた時、どういう「人生」を歩んでいくのかをどうしても見てみたかった。自分や姉妹のように何かの宿命に縛られない初めての「意思あるVR」が、どういう世界を歩み、築き上げていくのか…。
…早く夢から覚めてよバイパー。せめて「影」が来るより前に…。
『…ほう、懐かしい顔がいるな…』
「…!!」
フェイは突然強烈な悪寒を覚え、その場に倒れるようにしてうずくまった。
目をきつく閉じ、両肩を強く握って必死に悪寒に耐える。そうでもしていないと、気を失ってしまいそうなほどだった。近くにいるはずのジェームスが駆け寄ってくる足音がやけに遠くに聞こえる。
「…フェイ!どうした?大丈夫か!?」
うっすらと目を開けると、心配そうな顔をしたジェームスがこちらを覗きこんでいる。すぐ近くに彼の顔があった。吐息がかかる。
「だい…じょうぶヨ、ちょっと眩暈がしただけ…」
荒い息を整えながら、どうにかフェイは起き上がった。無理やり笑顔を作ってジェームスに笑いかけようとする。
「眩暈って…顔色真っ白じゃねーか!肩で息してるし、汗だって…。ちょっと待ってろ、今ハンカチやるから」
「大丈夫だってば…」
「いいから!…ホレ、こいつでせめて汗を拭いておけ」
ジェームスが差し出したハンカチは、クシャクシャになっている上によくわからない汚れもついていた。普通女の子にこんな汚いハンカチ差し出すかと思いつつも、そこにジェームスなりの思いやりを感じ取ったフェイは素直にそれを受け取った。
「ずいぶん心配してくれるのネ…。やっぱり惚れてるのかな、お兄様?」
「ありえねーってば…。つーかこの場合、そういうの関係ないだろ人として!」
愚痴りながら頭を抱えるジェームス。無理やりじゃない笑顔を浮かべてその様子を見ていたフェイは、頭の片隅でさっきの悪寒の正体を考えていた。
…「影」の気配とはちょっと違う。もっとずっと研ぎ澄まされた、刃物みたいな感覚…。でもなんだろう、こんなの経験ない…。
悪寒を感じた時、何か言葉が聞こえてきたような気もする。気のせいかもしれないけど…。
「お、匠が来た…って、誰か連れてるな。誰だありゃ?」
ジェームスの言葉で我に返ったフェイは、起き上がってそっちの方を見やる。
すると、匠が一人のスーツ姿の女性を連れて現れた。ふとその女性と目が合うと、一瞬彼女が懐かしさとも憎しみとも、憧憬ともとれる不思議な表情を浮かべたような気がした。
「第6プラントって、海賊まがいのことをやってるところじゃねーか…」
匠が連れてきたスーツ姿の女性、ジーラの名刺を見たジェームスは小声だがはっきりそう呟いた。その呟きは匠にも聞き取れたし、ジーラが苦笑を浮かべたところを見ると彼女にも聞こえたのだろう。
「確かに企業イメージがよくないのは認めるよ。でも、だからといって職員全員が悪党ってわけじゃない。中には純粋に、技術や学問レベルを高めようと努力している技術者だっているしね」
苦笑いを浮かべたままジーラが答えた。
第6プラント「サッチェル・マウス」は、数年前アイザーマン博士がDNA艦隊のマシュー大佐と内通し、クーデターを起こしてその実権を握った。その後は他のプラントを襲って物資を強奪するなど様々な海賊行為を重ね、ついには世界最大の企業国家である第8プラント「フレッシュ・リフォー」より討伐隊が差し向けられた。
この時あやうく壊滅の危機を迎えたものの、戦闘企業体RNAとの取引に成功して彼らの庇護を得、どうにか命を繋いで今日に至っている。
「じゃあ、あんたはどっちの側なんだ、ジーラさん」
ジェームスの口調は早くも喧嘩腰になりつつあった。素性の知れない相手をバイパーに近付けたくないのだろうと匠は思った。そしてジーラの方は、ジェームスに向かって大真面目にこう答えた。
「どちらかというと悪党の方だな」
「やっぱり悪者じゃねーか」
「悪者で結構。企業国家がやっていくためには、私のような悪党も必要なんだ」
ジーラはそう言いながら、バッグの中から金属製のケースを取り出した。その蓋を開けると、中には小形の箱のような装置とペンチやドライバーなどいくつかの工具が入っていた。
「見たところ、君達はなかなか面白そうなことをやっているようだね。そこに付いているのは、旧式の軍用レーザー通信機だろう」
ジーラはジェームスの方を見ると、
「バイパーは何か面白い反応を返したかい?」
うっすらと笑みを浮かべて言った。まるで、「私には、何でもお見通しなんだ」と言わんばかりに。
ジェームスが「おい、お前このことを喋ったのか?」と目で問いかけるが、匠は首を横に振って答えた。フェイも同じく首を振る。無関係の人間にそんなことをほいほい話すほど無神経ではない。
ジーラはそれを聞いた後、口調を変えずに続けた。
「なに、簡単な推測だよ。目の前に興味深い実験材料があって、君の手元に実験機材がある。ならば君は実験をしていたということだ。機材がレーザー通信機であるなら、何の目的でその機材を選んだのかを考えれば、自ずとどういった実験かは見当が付く。こう見えても私は研究者でね、その辺の勘には自信がある」
ジェームスがそれを聞いて脱力したのが見えた。木にもたれかかったフェイが必死に笑いをこらえている。
「さて、私はこれからフェンスをくぐってバイパーに直接接触する仕事があるんだが…」
ジーラはそう言いながら、ケースから取り出した装置のスイッチを入れた。
その一言とその仕草が、場の空気を変える。匠は我知らず、つばを飲み込んだ。
「この装置を使うことで、カメラとフェンスのセンサーをごまかすことができる。その間にフェンスの中に出入りしようというわけだ。カメラはフェンスの外側にしか向いていない配置になっているから、一度フェンスの中に入ってしまえばよほどのことがない限り気付かれることもないだろう」
ジーラはただ、淡々と喋っているだけにしか見えなかった。だがその一言一言が、匠の胸に突き刺さり、じりじりと胸の内側からあぶるような感覚をもたらす。
鼓動が徐々に速くなっていくのがわかる。
「当然、こいつが動作している間には何人フェンスの中に入ろうと問題ないわけだが…」
ジーラはそこで、焦らすように言葉を切る。
…早く、その続きを言ってくれ。
…頼む。
匠の心の中での呟きが聞こえたかのように、ジーラはニヤリと口をゆがめる。
「私のことを悪者というのなら、諸君、ひとつこの悪魔と契約を結んでみる気はないか?」
<続く>