Song of EarthWind



 …やっと、また会えたね。

 全てがあの別れの時と同じだった。眼下には雲の海原。夕日に紅く染まりつつある大空と、陽光を照り返し山吹色に輝く雲海の狭間を、隼を思わせる流麗なフォルムの飛翔魔法の力場に包まれ、空気を切り裂き飛翔する。
 耳を抜けていく風が、歌っている。もっと速く、もっと高く、もっと遠くへ、と。
 その声に合わせ、ユーシア・ヴェーダも歌った。
 彼女の歌声は、風たちの歌と合わさり、溶け合っていく。
 世界が奏でる壮大なアンサンブル。
 彼女は今、間違いなくその一部だった。

『世界の歌に、キミの歌声を重ねてごらん』

 「彼女」は初めて会った時、そう私に教えてくれた。「世界」と共に歌うことで、「世界」と一体になることが出来ると。
 私はあの時のこと、忘れられない。
 あの時初めて、世界がこんなに広くて、大きくて、暖かくて、綺麗な物だって知ったのだから。
 
 いつしか、自分のものとは違う歌声が新しく加わっていることにユーシアは気がついた。
 つややかで、伸びのあるアルト。聞き覚えのある声。忘れたくても、決して忘れられない声。
 大切なものをくれた「彼女」の、懐かしい歌声。

「風音、さん…」

 「彼女」は、ユーシアに寄り添うようにして飛翔していた。
 誰よりも自由であろうとして、あらゆる束縛に抗おうとして、その結果彼女を想う者、心から慕うものさえも捨てざるを得ない宿命を背負ったという、業に染まりし漆黒の翼を持つ魔族。不死ゆえに永劫の孤独を強いられ、風の如く世界をさまよい続ける彼女は、十八年前のあの時にもユーシアに教えを残して一人旅立っていった。

「風音さん!」

 しかし、ユーシアは信じていた。あの時彼女が連れてきてくれたこの空と大地の狭間の世界にもう一度来ることが出来れば、「彼女」に必ず再会することが出来ると。
 「彼女」は別れの時に、一つの約束をしていた。
 『もしキミが、もう一度この空と大地の狭間の世界に来ることが出来たなら、その時にまた一緒に歌おう。今日このときのように…』と。

「約束、ちゃんと守ってくれたんだ…」

 ふいに、沈みゆく太陽の姿が歪んだ。頬を伝わり熱いものが流れていくのを感じる。

 ユーシアの全身を包み込むように展開された飛翔魔法の力場は、周りの気流を捻じ曲げてしまうため、発する声を著しく減衰させ伝わりにくくしてしまう。ユーシアは果たして自分の呼びかけが「彼女」に伝わったか少し不安だった。しかし、寄り添うように飛翔し続ける「彼女」と目が合ったとき、その不安は氷解した。
 「彼女」…風音もまた泣いていた。泣きながら微笑んで、こう言ったのだ。

「ありがとう、僕に会いに来てくれて…。ずっと待っていたよ、キミのことを」


 ユーシア・ヴェーダは、教会の娘として生まれた。
 彼女の母親は、彼女を産んで間もなく帰らぬ人となり、父ガルシアが男手一つで育て上げてきた。

 彼女の生まれた「泉の国」では、神は唯一絶対の存在であり、世界の創造者にして秩序を司る者として信仰されており、その神は「光明神」あるいは「主神」と呼ばれる。彼はその下に六人の神族たる「大神官」を従え、世界の秩序を守護すべくそれぞれに役割を与えたという。
 人の身たる「神官」はそれぞれの大神官の下について彼らの果たす役割を共に果たす。例えばある大神官の下についた神官は罪を犯したものを捕らえ、裁くという役割を、また別の大神官の下についた神官は世界の秩序を新しい世代に伝えるため教鞭を執るという役割を受け、大神官達の使命を分業・代行する。それにより世界の秩序を保ち、魔のもたらす破局を退けるというのがこの地における宗教のシステムである。
 また、教会は所属する大神官ごとに建立され、宗教施設というよりもむしろそれらの職務を果たすための拠点としての性格が強い。
 ユーシアの生家は、悪しきものを打ち倒す大神官「マグナス」の教会であり、罪を犯した者を捕らえ裁くということを役割としていた。
 彼女もまた、そういった役割を担うことを期待され、幼い頃から武術、学問を中心とした厳しい教育を受けて育てられてきた。
 だが、彼女はいつしか、今まで当たり前のように繰り返してきたそんな日常に疑問を感じるようになり…。

 どうして、私はいつも勉強ばかりさせられているんだろう。
 どうして、私はほかの子と遊べないんだろう。
 私は…違う!「私だけ」なんだ!
 私だけ遊びに行けない、私だけ勉強ばかり。

 どうしてなの?

「父様」
 朝食の席で問いかけた声は、自分で思った以上に硬かった。
「なんだ」
 問いかけたユーシアの声に対し、父、ガルシアの声はいつもの調子と変わらなかった。
 だが、ユーシアは反射的に身を硬くしてしまう。そんな娘の様子を見て、さすがにガルシアは怪訝な顔をした。
「どうした。体の調子でも悪いのか」
「ううん、そうじゃないの。その…」

 こわい。こわい。こわい。
 こんなこと訊いたら、絶対怒られる。
 怒られる…でも。
 …やっぱり、どうしても知りたい。
 なんで私だけ、こんなに勉強しなくちゃいけないの?
 なんで私だけ、みんなと遊びにいけないの?

 私だって、みんなと遊んでみたい!川で魚を獲ったり、森の中を探検したり、してみたい!

「何で私、こんなに勉強しなくちゃいけないの?何で私だけみんなと遊べないの…?」
 
「何を言っている」
 ガルシアの口調は穏やかではあったものの、その中には確かに責めるような響きがあった。
「お前はいずれ私の後を継ぎ、この教会の教会長となって、88人からなる自警団員と十二人の司法委員、8人の魔法官吏を統率する立場となってもらわなくてはならないのだぞ。非常に大きな責任と、それを解決するための能力を求められる立場だ。そのためには多くのことを今のうちから学んでおかねばいかん。大人になってから学ぶのでは間に合わんのだ」
 形のはっきりしない、しかし確実に納得のいかない思いがユーシアの胸に満ちていく。そんな娘の様子を知らずか、ガルシアは言葉を継いだ。
「ことと次第によっては、凶悪な犯罪者を相手にしなくてはならないこともある。人に危害を加える魔族と戦うこともあるだろう。そんな時、みんなを指揮するのはお前なんだ。敵に勝つのも負けるのも、お前の指示で決まるようなものだ。いいか、お前には、こういう時にみんなを守れるいいリーダーになってもらいたいのだよ。そのために必要なことは多い。今のうちから学んでおかないと遅いのだ」
 でも…とユーシアは言いかけた。しかし、その続きを言葉にする勇気が湧いてこない。

 でも、でも、でも!
 やっぱり違う、何か違う、絶対違う!
 父様の言うこと、何かヘン!納得いかない!

「遊びたいという気持ちもわかるが、今は我慢しろ。いずれ我慢した分はちゃんと還ってくる」

 いずれって何時なの?
 本当に還ってくるの?

「うん…」
 頷くしかなかった。怖くて胸のうちを全然言葉に出来ない自分が情けなかった。

 だが、彼女の中に生まれた圧力は、それから日増しに大きくなっていった。

 なんで私じゃなきゃダメなの?
 なんで他の人に頼まないの?
 なんで他の子みたいに遊ぶのを我慢しなくちゃいけないの?
 そうまでして何で勉強しなくちゃいけないの?
 いつまで、こんな我慢をしなくちゃいけないの?
 そうまでして教会長になって、私は本当に幸せになれるの?

 もうイヤ!
 こんなの違う!これじゃまるで、私は父様の操り人形じゃないの!
「私は、父様の操り人形なんかじゃない!私は自分で自分のことを決めて、自分の人生を生きたい!」
 自由に…そう。
「自由になりたい…!」


 この地方には、毎年春に豊穣祈願祭が行われる。
 もともとは郊外の農村の集落に伝わってきた豊穣祈願の儀式が、都市部から伝わってきた芸能と結びつき、いつしか街を中心とした広い地域で一斉に開催される大規模な祭りに成長し今に至るというものである。光明神信仰とは別種の、大地の精霊達にまつわる民族信仰を母体としており、男達が牛馬にまたがった筋骨たくましい大男の姿で象徴される大地の精霊に扮して、すり鉢型の舞台の中を疾走しつつ強さを競う競技など、数々の特徴的な伝統行事が催される。
 豊穣祈願祭の日に限っては、ほとんど全ての人々が日ごろ勤しむ仕事より解き放たれ祭りを楽しむ。祭りの警護にあたるマグナスの神官たちはこの限りではないとはいえ、彼らも交代で警護にあたり空き時間には祭りに繰り出していた。
 ガルシアもこの日を含めた祭りのときに限っては、ユーシアにも祭りを楽しむよう勧める。
 しかし今までユーシアは、友達と遊びなれていないためか祭りにおいても何を楽しんだら良いかよくわからず、適当に過ごしているうちに祭りが終わってしまうということがほとんどだった。

 だが、今回の豊穣祈願祭は十二歳になったばかりのユーシアにとって、一時的にせよガルシアの束縛から開放されるという特別な意味合いを持つものだった。
 彼女は別に、父の下から逃げ出そうと思っていたわけではない。
 また、それに備えた準備をしていたわけでもなかった。
 しかし、家の門を出て祭りの雑踏の中に踏み出した瞬間、彼女は急に体が軽くなったような開放感を感じ、走り出していた。
 息が切れ、何度も転び、擦り傷だらけになりながらも、彼女はひたすら前へ、前へと走り続けた。

 この先には、私の知らない景色がある。
 この先には、私の知らない世界がある。
 見てみたい!
 行ってみたい!

 果たしてどれほど走り続けただろうか。
 もはや体は鉛の如く重くなり、これ以上走ることは出来そうになかった。それでもユーシアはひたすら前に歩き続けた。
 今の彼女にとって、新しい世界に踏み出していくことはこの上ない喜びだったのだ。
 しかし、太陽は必ず沈み、やがて夜はやってくる。

 暗くなってきた…もう、帰らなきゃ…。

 振り返ってみて彼女は愕然とした。
 街が見えない。
 周りは田園地帯と森が広がり、その中を今来た道が伸びている。しかしその先は森の中に続いていて、彼女が暮らす街の姿は視界の中にはどこにもなかった。
 今度こそ、彼女の中の何かが切れた。
 全身から一気に力が抜け、道端の道標にもたれかかるようにしてへたり込んでしまう。
 しかも、今の季節は春。暗くなるのは驚くほど速い。空が闇に支配されていくのと同じくらいに速く、彼女の心もまた恐怖に支配されていった。

 こんなに暗くなっちゃったのに。
 私、もう一歩も歩けない。
 街もどこにあるのかわからない。

 私、私、どうなっちゃうの!?

 気が付いたら、泣いていた。
 ユーシアは道の隅にうずくまり、嗚咽していた。
いつの間にか風が出てきたらしい。木々の梢がざわめく音が、やけに大きく聞こえた。そのざわめきと唱和するように、彼女はひたすら嗚咽していた。
 どれほどの間泣きつづけたのか。
 ふと気が付くと、風の音に重なるようにして、いつの間にか別の音が聞こえてきていた。

 歌声…?
 きれいな、声…。

 その歌声は、信じられないことに木の上のほうから聞こえてきていた。
 その方向を見たユーシアは、歌声の主を見つける。
 森の上から顔を出した満月の光の中で、風と共に歌う、黒い翼を持った女性を…。


 ユーシアは、まるで自分の心が「彼女」に吸い込まれてしまったかのような錯覚を覚えていた。
 風が木々の間を駆け抜け、梢を揺らし、草の葉を撫でていく。そのサウンドと溶け合うように歌う、つややかで、伸びのあるアルト。
 月光を吸い込むような背中の一対の黒き翼は、「彼女」が人にあらざるものであることを示していた。
 人に似た姿を持ちながら、人にあらざるもの…すなわち、魔族。
 生けとし生ける物の魂を喰らい、永劫の時を生きる者。世界の秩序からはずれし者。マグナスの聖印を持つ者達にとって、打ち倒すべき悪しき存在。
 疲れ果てたユーシアにもそのことは十分理解できていた。
 だが…ユーシアには、なぜか「彼女」が、今まで教えられてきた「そのような存在」だとはとても思えなかった。
 
 なんだろう…。
 あのひとの歌声、すごく楽しそうにも、すごく寂しそうにも聞こえる。
 でも…。
 なんだかすごく、暖かい…。

「こんばんは、迷子のお嬢さん」
 木の上から呼びかけられて、ユーシアは現実に呼び戻された。
 いつの間にか「彼女」は歌うのをやめ、こちらの方を微笑みながら見ている。
「こ、こんばんは」
 バカか、私はと頭の中の冷静な部分がつぶやいた。…相手は魔族なのに。
「ずっと泣き止んでくれなくて、心配していたけど…泣き止んでくれたみたいだね。嬉しいよ」
 「彼女」はそう言うと、ばさりと翼を一打ちし、ユーシアの前へと降り立った。
 ユーシアは半ば反射的に身を硬くする。その様子を見て、「彼女」は苦笑したようだった。
「大丈夫だよ…なにも、獲って食ったりしようってんじゃない。…キズがあるね。ちょっと見せてごらん」
 「彼女」は身をかがめ、ユーシアの目を正面から覗き込むようにした。
 それでようやく、ユーシアにも「彼女」の顔がわかるようになった。
 「彼女」の髪は短目に刈りそろえてあり、その色は黒髪の部分と茶色い部分、銀髪の部分が入り混じっているという不思議なものだった。また猫を思わせるような表情の「彼女」の目は、右が金色、左が翡翠の色の瞳だった。
 明らかに人間とは異なる面相でありながら、それでも何か不思議な調和が取れている。
「大丈夫だから、ね」
 「彼女」はそれ以上何もしてこなかった。ただ優しげに微笑んで、じっとユーシアを待っていた。
「僕を信じて」

 ふいに、ユーシアの脳裏に、さっきの「彼女」の歌声がよみがえってきた。

 すごく楽しそうにも、寂しそうにも聞こえる、優しい歌声…。

 ユーシアは「彼女」のそばまで歩くと、腕の擦り傷を示した。
 「彼女」は傷を覗き込むと、そこに手をかざす。
「力を抜いて、楽にして」
「ねえ」
「ん?」
「あなた、魔族よね。私の魂を食べたりしないの?」
 「彼女」は暫くきょとんとしていたが、やがて小さくぷっと吹き出した。
「大丈夫だって…ヒトの魂を全部食べなきゃいけないほど、僕は飢えることはないから」
 え、どういうこと、と思う間に、かざした手のひらから傷口に何か暖かいものが流れ込んでくるのが感じられる。
 次の瞬間、腕の傷は跡形もなく消えていた。
「すごい…なに、これ」
「たいしたものじゃない、ちょっとした魔法だよ。他に、痛いところはあるかい?」
 「彼女」はユーシアの傷を次々に治していった。それに加え、失われた活力さえもがよみがえってくるかのようにユーシアには感じられた。
やがて「彼女」が傷を全て治し終わると、ユーシアは立ち上がった。体が軽い。
 間違いなく、疲労までもが回復している。なんとか街まで戻れそうな気がした。
「あの、どうもありがとう…」
 礼を言いながらも、ユーシアは少し混乱していた。「彼女」は今まで教わってきた「魔族」というものとは完全に別物だ。魂を喰らわないどころか、傷の手当てまでしてくれた。
 それに、「彼女」は間違いなく優しい心をもっている。
「いいよお礼なんて。僕は勝手なおせっかいを焼いただけなんだしさ」
 …ちょっと変な所もあるけど、でも絶対、悪い人じゃない。
「そういえば、キミの名前をまだ聞いてなかったね。僕は風音っていうんだけど」
「かざね?」違和感のある名前だった。「泉の国」の住人の名前ではない。
「うん。…まあ、ちょっとヘンな名前かな?」
「ううん、そんなことない」違和感はあるけど、でも彼女にはすごく似合っているような気がした。
 でも…どこの国で使われている名前なのだろうか。
 この「人」は、いったいどこから来たのだろうか。
 そんなユーシアの心中を知ってか知らずか、「風音」と名乗った「魔族」ははふわりと笑っていた。
「ありがと。それで、キミの名前は?」
「私は…」


 それが私と、「彼女」…風音さんとの出会いだった。


「どうもありがとうございました。もう暗いし、私、早く帰らないといけないのでこれで失礼します」
 ユーシアは風音にそう言うと、振り返ってもと来た道を戻ろうとした。
「ああ待って」
 ばさりという音がすると、次の瞬間には背後にいたはずの風音が目の前に降り立った。彼女は何か心配そうな表情をしていた。
「え?なにか…?」
「いや、こんなに暗くなってるのに、女の子一人で歩いて行っちゃだめだよ。野犬とか、いろいろ危ないものがいるし、だいいちキミ、帰り道ちゃんとわかるのかい?」
 …この人、まさか私のことを心配してくれていたのか。
「来た道を戻れば帰れます。それに私、小さいときから父様に武術を習っていましたし、野犬ぐらいなら大丈夫です」
 風音の治療のおかげで活力が戻っていたユーシアには、少しぐらい危険な目にあっても無事に街までたどり着ける自信があった。
 それに、これ以上風音に面倒をかけたくないという気持ちと、彼女自身は気がついていなかったが風音と早く別れたいという気持ちもあった。いくら好感が持てても、風音が魔族でありマグナスの僕として打ち倒すべき対象であることに変わりは無い。これ以上彼女と一緒にいたら、今まで作り上げてきた自分というものが崩れてしまいそうだった。
「でもさ、来たときには気が付かなかった分かれ道、っていうのも案外あるもんだよ。もと来た道っていうのは意外にわかりにくいんだ。
 それに、キミが持っているのは『悪しきものを打ち倒す』大神官マグナスのシンボルだよね。ということは、キミが教わった武術は犯罪者を取り押さえるためのものなんじゃないかな。つまり、人間相手専用の武術だ。そういうものは動物相手には通用しない。体の構造も動きも、人間とは違うものだからね」
 風音の淡々とした指摘に、ユーシアは声を詰まらせたまま何一つ反論できなかった。
 それ以上にユーシアは、風音が妙に博識なことに驚いていた。人と交わることがない魔族の身であれば、マグナスの武術の知識など必要ないはずだ。人間と動物の構造の違いから役に立たないことを言うあたりも、武術の内容に関してある程度知っていることをうかがわせる。何か、違和感があった。
 第一、彼女は空を飛べる。そんな彼女が分かれ道云々と話しをするのも妙な気がした。
 なんだか一緒にいればいるほど、彼女が不思議な存在に思えてくる。
 このままだと、「実は魔族は人間とほとんど変わらないんじゃないか」という考えが頭をもたげてきそうだった。
「だからさ、僕が家の近くまで送っていってあげたいんだけど」
 唐突に風音がそう切り出したので、ユーシアは今度こそ驚いた。
「ええっ!?そんな、いいですよ別に!」
「よくないよ…ここで別れた後キミにもし何かあったら、僕が辛い」
 一瞬風音は悲しげな表情を浮かべたが、それはユーシアが気付かないほど短い間だった。
「大丈夫。歩くのよりずっと速いよ。それに夜目も利くし方角もわかる。どっちの方かだけ教えてくれればちゃんと連れて行ってあげられるよ」
 まさか、飛ぶの!?
 落ちたら死んじゃうじゃない!
 不安な表情を隠せないユーシアに、風音は自分の翼から羽根を一枚抜き取り、そっと手渡した。
「これは…?」
「両手で握って、目を閉じて、心を空っぽにしてごらん」
 ユーシアは言われた通り、羽根を両手で握り、目を閉じて瞑想してみた。
 すると、握った手の中から何かが伝わってくるのを感じた。

 空と大地の狭間の空間
 眼下には雲の海原
 夕日に紅く染まりつつある大空
 耳を抜けていく風が歌う歌声
 
 なに、これは。なんなの、このイメージは!

 雲を切り裂き、夕日を追い越し、私は大空を舞う
 風たちが、世界が奏でる音楽に合わせ、私は歌う

 もっと速く!もっと高く!もっと遠くへ!
 翼よ開け!風よ集え!世界よ歌え!

 飛びたい!
 羽根から伝わってくるイメージの奔流にもまれているうちに、まるで共鳴するかのようにユーシアの心の中に強烈な感情が芽生えた。
 飛びたい!
 この空を自由に飛んでみたい!
 飛ぶための力がほしい!
 「思い」に呼応するように自分の体の中に何かが集まって来るのを、ユーシアは感じた。
 その何かは「思い」に共鳴し、増幅され、体の外に溢れ出し…。

「…あれ?」
 急に体が軽くなったような気がして、目を開けてみたら、果たしてユーシアの体は宙に浮いていた。
「これ、どういうこと…?」
 風音はその様子を見て、嬉しそうに微笑んだ。


 そこは、星の海原だった。
 上を見上げると、満月を加えた満天の星空が見える。
 だが自分の下には、夜を迎えた家々が灯す明かりが点々としており、暗闇の中に見えるそれらはまるでもう一つの星空のようだった。
 ユーシアは、風音と共に星々の中を飛翔していた。
「いいかい、僕の手を絶対に離さないで。夜はどっちが上だかわかりにくいから、上に向かっているつもりで墜落することがあるし、高い木が見えなくてぶつかることもあるからね」
「はい!」
 と返事はしたものの、実はほとんど風音の話は耳に入っていなかった。
 胸がいっぱいだった。溢れ出した感情が、涙になって零れ落ちてきた。羽根を握り締めた右手に思わず力がこもる。

 世界が、こんなに綺麗だったなんて…!

 耳を抜けていく風が、歌っている。もっと速く、もっと高く、もっと遠くへ、と。
 木々もまた、梢を揺らして優しいメロディを奏でている。
 耳を澄ませば、小川のせせらぎすら聞こえてきそうだった。
 眼下の家々に灯る明かり。その一つ一つのところで、人々が今日を生きている。
 森や、川や、草原にも、数え切れないほどの命が生きている。

 世界が奏でる壮大なアンサンブル。
 その中に浮かぶ、宝石よりも綺麗な光の粒子たち。

 今まで私の心を縛り付けていた何かが、消えていく!
 私が今まで生きてきた場所は、なんて狭くて何も無い場所だったのだろう!

「これが、世界!」

「そう、これが世界さ。綺麗だろう?」
 左側で、ユーシアの手を引いて飛んでいる風音はくすくす笑ったようだった。
「ここも綺麗だけど、世界はこれだけじゃない。もっと遠くに行けば、『泉の国』以外にもたくさん国がある。いろんな国に、そこにしかない綺麗なものがあるんだ。僕は、そういう景色を見てまわるのが好きでね、あちこち旅をしてまわった」
「あちこち?」
「うん、もうずいぶん長いこと旅をしているからね。…それでも、見たことのない景色、心に響いてくる景色との出会いは尽きることがない。案外身近なところにも、僕の知らない景色があったりしてびっくりすることもある。
 そういう出会いがあると、すごく嬉しいものだよ。その嬉しいっていう気持ちを味わいたくて、僕はずっと旅をしているのかもしれないな」
 それを聞いて、ユーシアは少し不安になった。
「旅って…じゃあ、そのうちどこかに行っちゃうんですか?」
 風音は一瞬目を丸くしたが、やがて微笑むと、
「まあ、ずっとここにいるってわけにはいかないね」
 ありがとう…と風音がつぶやいたのを、ユーシアは聞いた気がした。
「次は、ずっと北の方に行ってみようと思ってる」
「北ですか」
「うん、ずっと北の遠いところ。そこでは時々、夜空に光のカーテンが広がるのが見られるんだそうだ。確か、オーロラとか言ったかな。…想像できるかい?夜空を埋め尽くすように広がる、巨大な光のカーテンを」
 想像するどころか、どういうものか見当もつかない。そんな話も初めて聞いた。
「僕にもどんなものか、さっぱりわからない。でもすごく綺麗なんだそうだ。だからぜひ一度見てみたい」
「私も、見てみたいな…」
「とんでもなく寒いところだから、さすがにキミを連れて、ってわけにはいかないけど」
 風音は苦笑した。
「見たいっていう気持ちを無くさず、見るために必要なことをやり遂げていけば、キミは自分の力で光のカーテンを見に行けるさ。僕が保証する」

 やっぱり、風音さん、行っちゃうんだ…。
 私は置いていかれちゃう…もっと一緒にいたいのに…。

 ふいに、風向きが変わった。今まで横から吹いてきた風が、追い風になったようだった。
「歌声が…」
「変わったね。優しい感じになった」
 風音は飛翔を止め、ユーシアと共に宙に浮かんだ。
「少し、ゆっくりと聴いていこうか」

 目を閉じて、じっと耳を澄ましてみた。
 最初に聞こえてきたのは、風が走り抜ける音。
 やがてその中に、木々の梢がざわめく音と近くの小川が流れる音が重なっていることに気が付いた。
 もっとよく耳を澄ます。針のように研ぎ澄まし、どんな小さな音も逃がさないくらいに。
 かすかに、梟が鳴く声が聞こえた。
 犬が吠える声も聞こえた。
 虫達が奏でる音楽も聞こえた。
 近くの家で飼っているのだろうか、馬のいななきも聞こえた。
 色々な音が重なり合い、音の世界を作り上げていた。そこには音程もリズムも存在しなかったが、ユーシアには、まるで世界が奏でるオーケストラのように聞こえた。

 やっぱり、世界って、歌うんだ…。
 すごくいい歌…。

 そのうちに、世界の歌に艶のあるアルトが加わった。
 風音の歌声は、驚くほど正確に風が歌っているパートとのハーモニーを奏でる。
 しばらくユーシアは目を閉じたまま聴き入っていた。
 やがて風音は歌うのをやめ、ユーシアは彼女に話し掛けてみた。
「いつ思いついたんですか?世界が歌を歌っているって」
「さあ…いつだったかな。もうずいぶん昔なのは間違いないけど」
 風音は遥か遠くを見つめた。
「実はこれは僕が思いついたものじゃなくて、人から教わったものなんだ。昔、ある旅の演奏家に会って、その後しばらく一緒にいたときに彼が話してくれたんだ。
 世界は絶えず歌を歌いつづけている。その歌は刻一刻と変化し、同じ歌が歌われることは二度とない。それに、場所によっても歌は違ってくるとも言ってた。
 その人はやっぱり、旅をするのが好きな人でさ。世界中の色々な所をまわっては、色々なものを見たり、そこでしか聴けない歌を聴いたりするようなことをしていたんだ」
「風音さんに似てますね、その人」
「…間違いなく僕に大きな影響を残した人だ。結局、彼の言ったことが本当に理解できたのは彼がいなくなった後だったけど。
 それから、しばらく彼と同じようにあちこち旅しては歌を聴いてまわったんだけど、ある時ふと自分も歌ってみたくなってさ。風の音に合わせて適当に声を出してみた。
 そしたらすごく気持ちよかった。世界が歌う大合唱に自分も参加できたような気がしてさ、それまでよりもずっとはっきり世界というものを感じることができた気がした。それからだよ、僕が歌うようになったのは」
 風音は目を閉じると、ゆっくりと歌いだした。
 彼女の歌には、いわゆる歌詞というものはない。端的には風の音に合わせるようにして声を出しているだけである。
 しかし不思議なもので、やはり彼女の歌声は風の音とのハーモニーを作っているように聞こえるのだ。それどころか彼女が歌うと、物言わぬはずの風のほうまで何かの感情を込めて一心に歌を歌っているように聞こえるのである。
 ただ…と、ユーシアは歌を聴いていて思うことがあった。

 風音さんの歌声、やっぱり、何か寂しげな響きがある。

 だがその一方で、ユーシアもまた、彼女のように歌ってみたいと思っていた。
 その思いに気が付いたかのように、風音の歌が止んだ。
「歌ってみるかい?」
「え…でも」
「大丈夫、難しいことなんてない。うまい、へたもない。君が思うように、感じたままに歌えばいいんだ。
 世界の歌に、キミの歌声を重ねてごらん。そうすれば、キミも世界と一つになれるよ」


 まるで、夢を見ているみたいだった。
 この日、私にとっての「世界」という言葉の意味が変わった。
 そして、不思議な魔族、風音さんとの出会い。
 彼女の存在は、それまで私に教えられてきた「常識」を根元からぐらつかせた。
 マグナスの僕としては、魔族は人に仇なす存在で討つべき敵だ。でも私には、風音さんがそういう存在だとは思えなかった。彼女は私を助けてくれたし、この短い間にとても大切なものを私にくれた。
 魔族って何?
 守るべき正義って何?
 いくつもの疑問が、私の中に芽生えていた。

 私は確実に、変わろうとしていた。


 街の入口近くに、ユーシアは降ろされた。
「もう、行っちゃうんですか?」
 言ってから、ユーシアは自分の言葉に驚いた。彼女はここで礼を言うつもりだったのだが、思わず別の言葉を口にしていたからだ。しかも、その言葉から、自分が風音を少なからず特別な存在としてみていることに気が付いて更に驚いた。
「うん。名残惜しいけど、あまりこの辺に長居すると騒ぎを起こしてしまいそうだから。誰かに迷惑をかけないうちに行くことにするよ。…じゃあ、元気で」
「風音さんのほうも、お元気で。頂いた羽根は大切に…あれ?」
 ふと気が付くと、右手に握り締めていたはずの羽根の感触がなくなっている。
 右手を開いてみると、そこには一握りの灰があるだけだった。それも一陣の風に奪われ消えてしまう。
「そんな…」
「その羽根は、キミに飛ぶ力を与えるっていう役目を終えたから。役目を終えた僕の羽根は、消滅するようになってるんだ」
 今にも泣き出しそうなユーシアを、風音はそっと抱きしめた。
「大丈夫、僕はキミのことを絶対忘れない。だからキミも、僕のことを忘れないでいて」
「…はい」
 泣き出しそうなのをこらえるのが精一杯で、こう言うのが限界だった。
「ありがとう…」
 風音はそうつぶやくと、ふわりと浮かび上がり、
「じゃあ、元気で!」
 そう言い残して空へと消えた。

 ユーシアは、しばらくその場で泣き崩れていた。
 だが、やがて泣き止むと、その場に黒い羽根が3枚ほど落ちているのに気がついた。

 これ、もしかして風音さんの…。

 彼女はそれを拾うと、立ち上がり、ガルシアが待つ教会へと歩き出した。


 その日、ユーシアは夜遅くまでガルシアに絞られた後、勝手に遠出をしたことへの罰として一ヶ月の外出禁止を言い渡された。
 しかし、今のユーシアにとって、そんなものは全く苦にならなかった。
 彼女は自由な時間を使い、ガルシアの蔵書、特に魔族に関する本をひたすら読みふけった。読んだだけではわからないようなことは、ガルシアや他の神官達に質問することさえした。
 以前の彼女では全く考えられないことだった。つい最近まで、ユーシアは与えられた課題をこなすのみでこのように自発的に何かを学ぶということはなかったのである。
 勤勉になったという評価よりもむしろ、突然の豹変に対する様々な憶測が飛び交った。特に、豊穣祈願祭を境に変化があったことが話題になり、「実はお嬢さんは、あの日の遠出の時に魔族に襲われかけたのではないか」という説が神官達の間では有力だった。
 やがてそれはガルシアの耳にも入るのだが、彼は「経緯はどうだろうとユーシアが自発的に何かを学ぶようになったのだから、喜ばしいことでありこそすれ、気にかけるようなことではない」と言ってとりあおうとはしなかった。逆に、「だいたい一人でいる時に魔族に襲われて、なぜ無事に帰ってきたのだ」、「自分でよく調べもせず、かってな憶測ばかり並べ立てるのがマグナスの僕のとるべき態度か!」と神官達を一喝する場面もあったという。
 そんな周囲の様子はお構いなしに、ユーシアはひたすら魔族のことを調べ続けた。
 その結果、色々な事がわかった。
 最もユーシアを驚愕させたのは、魔族とは、人間や犬、馬などの一般の生物から変化して生まれるということであった。
 その仕組みはいまだ明らかにはされていないが、学者達はこのように考えていた。
 まず、生物は、大きく分けて肉体、精神、魂の三つの要素で構成されている。これら全てには「その生物がそうあるべき形態を保つ」ための、いわば設計図とも言うべき情報が組み込まれている。例えば、犬であれば、肉体には犬の姿などの設計図、精神には犬の行動などの設計図、魂には犬の本能などの設計図が組み込まれているということになる。
 しかし、何かの要因で設計図が変質し、本来の役割を果たさなくなることがある。
 肉体に組み込まれた設計図が変質・破損した場合、その部分の肉体が異常なパターンで成長し、その他の健康な部分まで損なうということがある。これは、いわゆる癌である。
 同様に、精神や魂の設計図が破損することもある。特に魂の設計図が破損した場合、その影響が精神や肉体にも及び、自然の摂理から外れた生物へと、全体を「癌化」させてしまう場合がある。
 このようにして生まれた存在を、人々は「魔族」と呼称していたのだ。彼らは寿命を失い、永遠の時を生き続けることを強制される。
 また、彼らは一般には「生けとし生きるものの魂を喰らう」と言われているが、厳密にはこれは誤りであることがわかった。正確には、彼ら魔族は「生物が発する『精気』を吸って」生きているのである。この精気は植物を含む生物の体から常に放出されており、強引に吸収されればさすがに命に関るものの、すでに放出されて漂っている精気を吸われる分には何の問題もない。
 つまり、生き方次第では、彼らは他の生物を全く殺すことなく永遠に生きていくことが出来るのである。
 これは、「世界」というシステムからしてみれば由々しき事である。なにしろ食物連鎖という生態系の基本システムから、彼らは逸脱しているのである。魔族となっても生殖機能が残り、魔族の子を産む場合があるので、放置しておけば、彼らは他の生物を殺すことなく増えつづけ、「世界」のキャパシティを圧迫してしまうだろう。
 この事実は、世界の秩序をつかさどる光明神の立場からすれば絶対に許されざるものであり、それゆえにマグナスとその僕たちには「魔族を討つ」という使命が課されているということを、ユーシアは理解し、そして愕然とした。

 これじゃ、風音さんは、存在自体が悪者じゃないの!

 彼女には、風音を悪者として見ることはどうしてもできなかった。
 しかし、魔族を討たずにおくことは、いずれ世界にダメージを与えることになるということも、彼女は理解してしまった。
 心が引き裂かれそうだった。
 自分に「世界」を垣間見せてくれた風音。しかし同時に、「世界の敵」である風音。
 いっそこのまま、風音と再会することがなければまだいい。
 だが、万に一つでも、彼女ともう一度合間見えることがあったら、そのとき自分はどうしたらいいのか。

 心が、壊れそうだよ!

 その日から、ユーシアは自室に篭りがちになった。豊穣祈願祭からおよそ半月後のことである。
 彼女は誰の目にも明らかなほど、憔悴していった。さすがにガルシアも見咎め、事の次第を彼女に問いただしたが、ユーシアは何一つ語ろうとはしなかった。

 こんなこと、父様に話せるわけ、ないじゃない…。

 あまりにもユーシアが頑ななので、ガルシアもやがて何も聞かなくなった。
 しかし、それとは別にユーシアのことが気になった一部の神官達が、ひそかにユーシアの様子を窺うようになった事には、彼らは気が付いていなかった。
 一方ユーシアの憔悴は日に日にひどくなっていった。彼女はずっと風音のことを考え続け、しかし何の結論も出せないままでいた。そして、そんな無力な自分への苛立ちと自責の念が、彼女自身の心を少しずつ切り刻んでいったのだ。
 それからさらに時は流れ、豊穣祈願祭からまもなく一月になろうとしたある日、彼女の運命の歯車は急速に回り出す…。


「この地域に、魔族がいるだと?」
 報告を受けたガルシアの表情がかすかにこわばったことに全く気がつかないかのように、本神殿から来たという神官達の代表は報告を続けた。
「はい、間違いありません。本神殿の託宣官百二十一人中百十五人までが、この地に魔の波動あり、との結論を出しております。また、この近辺にていくつかの目撃証言も得られております。それによりますと、外見は漆黒の翼を備えた人型の魔族であり、託宣官達の導き出した特徴と一致します」
 託宣官というのは、マグナス本神殿直属の探査系魔法の専門家達である。彼らはその能力によって、魔族や犯罪者、あるいは重要な証拠物件といったものなどを迅速にサーチし、他の神官達の捜査活動をサポートするのことを役目とする。
 当然能力は万能というわけではなく、また託宣官にも能力の個人差があるため彼らの探査は絶対というわけではない。しかし、百二十一人いる託宣官のうち百十五人までもが同じ結論を出し、しかも外見が目撃証言と一致するとなれば、誰の目にも間違いではないことは明らかだ。
「…わかった。魔族がいるのは間違いないようだ。しかし、漆黒の翼を備えた人型と言ったか?飛行能力がある場合、攻撃はおろか捕捉することさえ困難。当分神殿の装備では、飛行能力のある魔族には有効な打撃を与えられない。加えて、相手の能力は未知数。現状では作戦の遂行は困難を極めるが」
「それについては、本神殿・魔族討伐部より作戦が立案されております。こちらのレポートをご覧ください」
 そう言うと、神官は分厚い紙の束を取り出した。ガルシアは最初の数ページにざっと目を通すと、
「風音だと?二百五十年前に『凪の国』で街一つを消滅させたという、あの魔族か」
「はい。風音に関しては、凪の国をはじめ各国より様々な情報を得ております。行動パターンや能力に関しては、レポートの中で詳しく述べておりますので後ほどご覧になってください。それと、作戦の概要ですが、レポート中ほどの第三章をご覧になってください」
 言われる通りにレポートに目を通したガルシアは、やがて驚愕に目を見開き、そして、吠えた。
「娘を囮にしろというのか!」
「端的に言えば、そうなります」
 そう言う神官の表情には、感情が全く感じられなかった。
「託宣官達によれば、お嬢さん、ユーシア・ヴェーダは、豊穣祈願際の日に風音と接触を持ったとのこと。また、過去のデータから、風音は一度親しくなったものが危害を加えられることを看過できないことが明らかになっています。そこで…」
「娘をあえて危険にさらし、風音をおびき出した上でこれを討つ、か」
「そうです」
「だが、それで風音が現れなかったらどうする。第一、風音はどうやって娘の危機を察知できるというのだ!」
 もし娘に何かあって、それでも風音が現れなかったら貴様はどう責任を取るというのだと憎々しげに睨み付けられても全く動じず、神官はレポートをめくるとある記事をガルシアに示した。そこには過去、風音と遭遇した人物が危機的状況に陥った際、風音に助けられたという事例がいくつも記されていた。
「危機を察知する手段については不明です。また、絶対に風音が現れるという確証もありません。しかしながら、これだけのデータがある以上、お嬢さんの危機には非常に高い確率で風音が現れることが考えられます。たたでさえ捕捉や攻撃が困難な飛行型の魔族を確実に仕留めるのに、何かでおびき出しその上で討つというのは基本でありましょう」
「だが、もし風音が現れるよりも前に、娘が倒されるようなことになったら!」
「単にその時点で作戦が失敗、ということになります」
 ガルシアは歯噛みした。やはり本神殿の連中は、任務の遂行のためには神官達の命や感情をなんとも思わない。
 確かに、世界のバランスを危うくさせる魔族という存在は見つけ次第打ち倒さねばならない。だが、それを成し遂げるための手段として、彼らは娘を差し出せと言う。
 ガルシアは過去に部下を率いていくつもの武功を立てたが、その際に部下を失うようなことは一度としてなかった。常に全員生還することを第一に考え、いざとなれば迷わず撤退した。彼は部下をあくまで一人の人間としてみることにこだわったのである。
 人間であれば、必ず帰るべき場所があり待っている者がいる。そういう者を絶対に泣かせてはならない。
 分神殿の神殿長となった今も、これはガルシアの口癖となっている。たとえ臆病者と謗られても、彼は決して自分を曲げることはなかった。そしてこのことが彼の大きな人望へとつながっていた。
 目的のために手段を選ばない彼らの方針は、ある程度理解できる。だが今回の作戦は、唯一の手段かもしれないがあまりにも短絡的でスマートではない。なにより彼自身のポリシーが許さなかった。
 外から雷鳴が聞こえた。この時期には珍しく、雷雲が出てきたらしい。
 躊躇しているガルシアに痺れを切らしたか、神官は一枚の書状を取り出した。
「これは…」
「本神殿・魔族討伐部の最高責任者による作戦遂行の命令書です。あなた方は最高責任者の名前で出されたこの作戦を遂行する義務があり、従わなければ処罰の対象となります」
 絶句するガルシアに畳み掛けるように、神官は言葉を継いだ。
「作戦の詳細はそちらにお任せします。ただし、風音がこの地を離れないうちに作戦を行う必要があるので、早急に検討をお願いします。作戦自体は遅くとも五日以内に行ってください。これが履行されない場合、命令違反とみなされ処罰の対象となります…」

 だがその時、部屋の外を走り去っていく者がいたことに、ガルシアや神官達は誰一人として気がつかなかった。

 父と神官の話を立ち聞きしているうちに、もう、どうしてもその場にいられなくなった。
 逃げ出すように走り出し、やがてユーシアは自分が教会の裏庭にいることに気が付いた。
 空には黒々とした雷雲が立ち込め、時々雷鳴も聞こえる。
 ぽつぽつと大粒の雨が体にあたり始めたとき、ユーシアは力の限り、喉も破れんばかりに絶叫した。

「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」

 心が爆発しそうだった。今にも狂ってしまいそうだった。
 もうどうしたらいいかわからなかった。
 自分が何のために存在するのか、わからなかった。
 よりにもよって風音をおびき出す餌にされる。そのことが、彼女を苛んだ。
 私は道具なんかじゃないと、心のどこかが叫んでいた。
 なんとかして風音にこのことを伝えたいと思ったが、その一方で、風音が魔族であるという事実が彼女を引き裂いた。
 魔族は世界の敵。
 でも、私は風音さんに生きていてほしい。
 二つの思いの狭間で、彼女はただ、叫びつづけることしかできない…。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああッ、ああ…」

 やがて力尽きたユーシアは、その場に仰向けに倒れこんだ。
 すでに雨は土砂降りになっていて、目を開けていることも出来なかった。
 もう何も考えられなくなった彼女は、雨に打たれながら、無意識のうちに上着のポケットに手を入れていた。そこにはあのときに拾い、いつも肌身離さず持っていた三枚の羽根が入っていた。
 その柔らかな感触が、ほんのわずかだけ彼女の意識を覚醒させる。

 風音さん…。

 その時、風が吹いた。
 土砂降りの轟音の中、彼女には確かに、風が駆け抜ける音が聞こえた。

 空と大地の狭間の空間
 眼下には雲の海原
 夕日に紅く染まりつつある大空
 耳を抜けていく風が歌う歌声

 いくつものイメージが、彼女の中ではじけて消える。

 耳を抜けていく風が、歌っている。もっと速く、もっと高く、もっと遠くへ、と。
 木々もまた、梢を揺らして優しいメロディを奏でている。
 耳を澄ませば、小川のせせらぎすら聞こえてきそうだった。

 羽根を握る手に、力がこもっていく。
 彼女はゆっくりと、その身を起こした。

 世界が奏でる壮大なアンサンブル。
 その中に浮かぶ、宝石よりも綺麗な光の粒子たち。

 ほんの少しずつ、だが確実に、何かが見えてくる。とても大切なものが。
 あの時、風音から受け取った、一番大切な何かが。

 すごく楽しそうにも、寂しそうにも聞こえる、優しい歌声…。
 なんだかすごく、暖かい…。

 『世界の歌に、キミの歌声を重ねてごらん。そうすれば、キミも世界と一つになれるよ。』

 心を覆っていた黒い殻が、砕け散った。

 優しくて暖かいものが、心の中を満たしていく!
 そう!世界が綺麗だってことを知ったとき!風音さんの優しい気持ちを感じたとき!
 私はこんなにも、暖かい、優しい気持ちになれたんだ!

 迷いが、嘘のように晴れていく。
 羽根を通じて、体の中に何かが集まってくるのを感じる。

 光のカーテンの話をしたとき、風音さんは言っていた。「見たいっていう気持ちを無くさず、見るために必要なことをやり遂げていけば、キミは自分の力で光のカーテンを見に行けるさ。僕が保証する」と。
 今私がやりたいことは。
 そのために必要なものは。

「お願い、力を貸して!私は…風音さんを守りたい!」
 魔族かどうかなんて関係ない!
 私に優しい、暖かい気持ちをくれた風音さんを、どうしても守りたいの!だから!
 もう一度、この空を飛翔する力を、風音さんのもとにたどり着ける翼を、私にちょうだい!
 そして、私を風音さんのところに導いて!
「お願い!」

 ユーシアの姿が見えなくなったのを心配した教会の神官達は、教会中を探し回った末ようやく裏庭にユーシアらしき人影を見つけた。
 だが、土砂降りの中雨具もなしに立ち尽くしていたその人影は、おもむろに宙に浮かぶと、彼らの見ている前で雷光の走る黒雲に吸い込まれるように消えていった。


 さっきにも増してものすごい勢いで、雨粒が顔にぶつかってくる。ユーシアは目を開けるどころか、両手で顔をかばいながら飛ばなくてはいけなかった。
 もう自分が上に向かっているのか、下に向かっているのかさえはっきりしなかった。
 しかし、不思議なことに彼女には、どの方向に風音がいるのかが漠然とだが感じられた。ユーシアはその感覚だけを頼りに、風音に向かって飛びつづけた。
 何度も近くで雷鳴が轟き、その度に驚いてバランスを崩しかけた。
 長時間雨にさらされ続けた体は、もうすっかり冷え切ってしまっている。
 それでも彼女は飛びつづけた。

 まだ、墜ちるわけにはいかない!
 せめて、風音さんに会えるまで保って、私の体!

 だがその時、ユーシアの至近距離で雷が落ちた。
 彼女は落雷の衝撃波に吹き飛ばされ、バランスを完全に失ってしまう。同時に冷え切って力を失いかけていた右手から羽根がこぼれ落ちていく。
 彼女を支えていた力が、霧散していくのが感じられた。

 墜ちる…!

「…いやああッ!」

 その瞬間、何かがすさまじい勢いで飛んでくる音が聞こえた。
 「それ」は落下していくユーシアの背後に回り込むと、両腕で彼女の体を抱きかかえ、
「目をつぶって!」
鋭い口調でささやいた。

 …この声!

 次の瞬間、世界が回った。
 すさまじい回転と共に、落下から上昇へと一気に転じる。やがてある程度高度を取ったところで水平飛行に移ったのがユーシアにはわかった。
 緊張の糸が切れてしまい、全身から急に力が抜けていってしまう。
 残った力を振り絞るようにして顔を上げると、果たしてそこには「彼女」がいた。
「風音さん…」
「まったくキミってやつは…」
 風音は怒っているのか、呆れているのか、笑っているのか、そのどれとも取れるような複雑な表情を浮かべていた。
「僕が知っている中でも、トップクラスの大馬鹿者だよ!」

 風音はひとまず手近な森の中に降りると、雨を避けられそうな大樹のうろ穴を見つけてユーシアを横たえた。
 ユーシアは、かなり危険な状態だった。精神的にも肉体的にも消耗しきった状態で、土砂降りの中を飛んで体を冷やしてしまったのである。すでに熱が出て、意識も朦朧としていた。このままでは肺炎になり、命に関る恐れがあった。

 …死なせるもんか、絶対に!

 風音はまず、ユーシアの濡れそぼった服を脱がせた。次に自分も服を脱ぐと、ユーシアを抱きしめるようにして体を密着させ、さらに翼で包んでやった。
 そして、森の木々が発する濃密な精気を吸収し、口移しで少しずつユーシアの体に送り込んでやった。体を温め、精気を十分補給してやれば、ユーシアは回復するはずだった。

 ただ、衰弱があまりにもひどいと、回復が追いつかないかもしれないけど…いや!

 部の悪い勝負。弱気な考えが頭をよぎる。だが、風音は行為を続ける。止めるわけにはいかなかった。

 僕はもう一度、彼女に笑ってもらいたいから!絶対に何とかしてみせる…!
 好きな人を目の前で失うのは、もう二度とごめんだ!


 ユーシアは、夢を見ていた。

 一人の娘がいた。彼女は名医と呼ばれた医者の一人娘で、親の後を継ぐことを幼い頃から期待されていた。
 だが、成長するにつれて、彼女は自分が親の後を継ぐことへの疑問を感じ始める。
 いつしか娘は周囲の自分への期待を煩わしく思うようになり、やがて自由を渇望するようになっていった。

 …この人、なんだか私に似てる…。

 そんな折、娘は一人の風変わりな男と出会う。
 彼は旅の演奏家だった。街角で演奏していた彼の姿、そしてなによりその音楽に、今までの自分がずっと求めてきたものを感じた娘は、男と語り合い、やがて親しくなっていった。
 娘は、男の話す物語に夢中になった。海辺の村の人々が漁の時に歌う歌の話、森の中のとある猟師が獲物の霊を慰める時に歌った歌の話、砂漠のオアシスで暮らす人々が生んだ独特の音楽の話…。
 そして、世界そのものもまた、絶えず歌を歌っているという話。
「僕は色々な歌を聴くのが好きでね。世界中の色々な所をまわってはそこでしか聴けない歌を聴いてまわっているんだ」
 彼は、はにかみながらそう言った。

 …この人の言う言葉も、どこかで聞いたことがある…。

 だが、娘の幸せな日々は唐突に終わりを告げる。
 当時、世を騒がす暴力的な政治結社があり、男はそれとのつながりを疑われ連行されてしまったのだ。
 留置所の衛生状態は劣悪で、男はそこで病を患ってしまう。だが、満足な治療をろくに受けさせてもらえず、容疑が晴れて釈放されたときには、すでに男の体は取り返しがつかないほど蝕まれていた。
 娘自身には、彼を救える力はなかった。
 娘は父に、男を助けてほしいと懇願した。
 だが、男の素性が知れないことと、彼が十分に金を持っていないことを理由に父は取り合わなかった。
 金なら自分が払うと娘が言っても駄目だった。
 娘は、街中の医者という医者に頭を下げて回ったが、結局すべて空振りに終わる。

 やがて彼は、静かに息を引き取った。
 「僕のことを慕ってくれて、本当にありがとう。嬉しかったよ…」と、娘に言い残して。

 …!まさか、これって…。
 …だめぇっ!

 娘は慟哭した。
 冤罪で彼を連行した役人達を呪った。
 男を見捨てた父を呪った。
 救いの手を差し伸べてくれなかった医者達を呪った。
 男を救う力がなかった自分自身を呪った。
 そして。
 男の未来を奪った世界を呪った。

『いやああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!』

 自分の魂が壊れる音が聞こえた。
 自分の体が、異形へと変化していくのが感じられた。
 自分の中に、得体の知れない力が満ちていくのがわかった。

 彼女は、その力に命じた。
 男からその自由を永遠に奪った者達に、それと等しい運命を与えよ、と。

 …風音さん、もうやめて!それ以上はだめえっ!

 巨大な竜巻が、街を飲み込んでいく。
 家も、人も、何もかもが、等しく巻き込まれ、粉砕され、吸い上げられていく。
 やがて、竜巻がおさまり、残骸と化した街に静寂が戻ったとき。
 そこにはただ一人、漆黒の翼を持つ魔族だけが立っていた…。

 …これが、風音さんの、始まり…!

 夢は、まだ続く。
 「完全なる自由」と「それを守る力」を手に入れた娘は、その翼で世界中の空を飛んだ。
 かつて男が言っていた「世界が歌う歌」との出会いを求め、彼女はひたすら飛び続けた。
 娘はその後、人との関りを徹底的に避けた。ほんのわずかでも人を好きになることを、誰かとの間に絆が芽生えることを恐れた。
 失う痛みを二度と味わいたくなかった。
 それ以上に、芽生えた絆が自由の足かせになることを嫌った。
 街一つを消滅させて得た自由。数多くの屍の上にある自由。失うわけにはいかなかった。
 彼女の背負った業の重さが、彼女を「自由」に縛り付けていた。

 ごくまれに、旅の途中で窮地に立たされた人々に遭遇することもあった。さすがにその時は、娘の元々の性分ゆえか見捨てることはできなかった。
 魔族となった身であっても、助けた彼らには感謝され、慕われることもあった。娘のことを本気で想ってくれる者もいた。
 娘はしかし、そんな彼らのもとから何も言わずに飛び去っていく。

 背中の翼が、誰よりも自由であることを、あらゆる束縛に抗うことを、彼女に強要していた。
 業に染まりし、漆黒の翼。
 娘の翼は、永劫の孤独という名の十字架だった。
 誰もいない風景の中を、彼女は永遠に飛び続ける…。

 …それで、風音さんの歌は、あんな風に聞こえたんだ。
 …すごく楽しそうにも、寂しそうにも聞こえる、優しい歌声…。
 …でも…。
 …でも、こんなの悲しい!こんな自由悲しすぎるよ!

 目を覚ますと、そこには必死に自分を看病する風音の顔があった。


「よかった、何とか回復が追いついた…」
 ユーシアが目を覚ましたのを見て、風音は心から安堵した。冷え切った体に温もりが戻り、活力が復活しつつある。もうしばらくすれば、自分で動ける程度には回復するだろう。
「間に合ってよかった、本当によかった…」
「あ、あの、私…。風音さん?」
 目を覚ましたばかりで状況を把握しきれていないユーシアを、風音は強く抱きしめた。
 その時にユーシアは、自分と風音がどちらも裸であることに気が付いて真っ赤になったが、その羞恥の感情は、風音の次の言葉を聞いた瞬間吹き飛んだ。

「僕は、大好きな人を死なせずにすんだ…大切な人の命を、救うことができた!」

 風音は泣いていた。
 風音の肩が震えているのが、ユーシアにも伝わってきた。
 ユーシアの脳裏に、今見た夢の内容がフラッシュバックした。大切な人を目の前で失い、魂が壊れて魔族化した娘。自分の住んでいた街を滅ぼして得た、業と引き換えの悲しい自由に縛られ、今までずっと孤独に生きてきた漆黒の翼。
 そんな彼女が、自分のことを大好きと言った。大切な人と呼んでくれた。
 訊きたいことが山ほどあった。だが、ユーシアは今は何も言わず、黙って風音の背中に両腕を回した。
 風音の体は、思ったよりもずっと暖かく、華奢で、柔らかかった。

「初めて見たときから、キミが他人じゃないような気がしていたんだ」
 ユーシアの体を翼で包んでやりながら、風音は語りだした。
 外からまだ雷鳴が聞こえるものの、雨はすでに上っていた。風音はうろ穴の外の枝に自分達の着衣をかけ、魔法の熱源を作って乾燥させていた。
「街外れの道端で泣いていたのを見て、なぜかキミが、自分を束縛するものから逃げ出してきたように思えたんだ」
「昔の風音さんのように?」
 ユーシアの言葉に、風音はどきりとした。
「さっきまで、夢を見ていたんです。なんだかとても悲しい夢を」
 ユーシアは夢の内容を風音にざっと説明した。それを聞いた風音は少し神妙な表情になると、「それは確かに僕の過去だ」と言った。
「キミを看病しているときに、僕の記憶が伝わっちゃったみたいだね…。時々あるんだ、こういうこと。…そう、キミは昔の僕自身によく似てるように思えた」

 それどころか、あのときの「彼」と同じ感じまで…どういうわけか、感じたんだ。

「それで、あの時助けてくれたんですか?」
 風音はかぶりを振った。
「いや、それは関係ない。僕はああいう状況では、困っている人をどういうわけか放っておけないんだ。面倒事を避けるのなら、放っておくのが正解なんだろうけど…それをやると、後ですごく辛くなるんだ。それよりは面倒事の方がいくらかマシなんで、つい助けてしまう」
 いいことなのかどうかはよくわからないけど、と風音は続けた。
「ただ、本当はあそこまでいろいろ喋るつもりはなかったんだ。あんまり喋ると、情が移って束縛ができちゃうから…。でも、キミが僕の羽根で空を飛んだときの表情を見て、ふと思ったんだ」

 この少女は、もしかすると、自分とは違う「自由」にたどり着けるかもしれない。
 業と引き換えの、自分を束縛するような「自由」とは違う、本当の自由へと。

「…まさか、その後僕を追いかけてくるとは正直思わなかったけどね。そこまでしたのは、キミが初めてだった…嬉しかったよ」
「あ、そうだ!」
 ユーシアは、わざわざ風音を追いかけてきた目的を思い出した。
「風音さん、実は、マグナスの神官が風音さんを討とうとして…」
「キミを餌に、僕をおびき出そうとしてるんだろ。もう聞いたよ。君がうわごとで繰り返してた」
 風音は悪戯っぽく笑った。
「大丈夫。服が乾いたら、そいつのところへ挨拶に行ってあげる。二度とキミにひどいことをしようって気が起きないように、きつーく言っておいてあげるから」
「でも、風音さん…」
「大丈夫、僕はそんな奴には負けないから」
 でも、と言いかけたユーシアの唇を、風音の人差し指がそっとふさいだ。
「キミは僕達魔族が世界の敵だって知っていて、討たなければいけない存在だって知っていて、それでも僕のところに来てくれた。体をぼろぼろにしてまでも、ね。
 僕にとって、今までこんなに嬉しいことってなかった。…少しでも報いたいんだ、キミが僕にくれた想いに、ね」
 ユーシアは、ため息をついた。
「やめてくれって言っても、聞いてくれませんよね」
 それから、彼女は何かを決意したように風音の目を見つめた。
「ん、何?」
「街に行く前に、どうしても聞いてほしいことがあるんです!」
 一字一句に力をこめるように、ユーシアは言った。
「今のうちに風音さんに、どうしても言わなくちゃいけないことがあるの…」
 風音はしばらく目を丸くしていたが、やがてふわりと微笑んだ。
「じゃあさ…街に行く前に、少し寄り道していこうか」

 私と風音さんはその後、「ある場所」に立ち寄った後、日も落ちかけ明かりが灯り始めた街の、マグナス教会…私の家に殴りこんだ。
 本神殿から来た神官連中は、まさかこちらから攻め込んでくるとは考えていなかったらしい。迎え撃つ体制を整える間もなく、あっさりと叩きのめされた。死んではいないが、もう二度と武器を持つことはできないだろう。少し可愛そうな気もしたけど…風音さんは本気で怒っていたから、この程度で済んだのはむしろ幸運だったのかもしれない。
 意外だったのは、父様と元々ここに所属していた神官達が何一つ手出しをしてこなかったことだ(後で訊いたら、父様達は最初から風音さんと戦う気がなかったらしい。どうせ勝ち目が万に一つもないから、だそうだ)。
 それどころか、父様は…。

「風音殿とお見受けするが、相違ないか」
 本神殿の神官達が叩きのめされた後、ガルシアは武器を捨て、風音に語りかけた。
「はい、僕が風音です。あなたはユーシアの御父上でしょうか?」
「いかにも、当分神殿長のガルシア・ヴェーダと申します」
 ガルシアは風音のほうに歩み寄ると、彼女に右手を差し出した。
「ユーシアの父親として、御礼申し上げる…娘が、大変お世話になりました」
 風音もそっと、その手を握り返した。
「僕の方こそ、彼女には大切なものをもらいました。どんなに感謝しても足りない位に」
 二人はそれ以上何も言わなかったが、お互いに言いたいことは十分に伝わったのだろう、やがて風音はガルシアに一礼して背を向け、神官達に見送られるようにして神殿を後にした。

 風音は神殿の入口で待っていたユーシアに何かを告げると、星が見え始めた空に向かって消えていった。
 ガルシアには、娘がそのときに「必ず、私はそこに行くから!」と叫んだように聞こえた。


 風音さんとの別れから二年後、私は教会から旅立った。
 最終目的地は、もちろん、風音さんのいる「空と大地の狭間の世界」。
 本当は、すぐにでも風音さんを追いたかった。最後に一枚残った羽根を使って、風音さんのところに飛んでいきたかった。
 でも、私はあえて自分の力だけで風音さんのところに行くことを選んだ。
 当然、その時の私にはそんな力は全然なかった。だから、私は世界中を旅し、自力で風音さんのところに飛んでいける手段を探すことにしたのだ。

 風音さんと別れたあと、私は父様に胸のうちを打ち明けた。
 風音さんと再会するための力を見つけるために、旅に出たい、と。
 父様は何も言わなかった。ただ、じっと私の目を見ていた。私も目をそらさず、見つめ返した。
 やがて、父様は言った。
「今すぐに旅に出ることは許せん。今のお前には、外の世界で生きていく力がないからな。だから最低二年待て。最低二年間、旅をするための最低限の知識を学んで身に付けていけ」
と。
 この後、父様が「そうでないと、心配でとても旅になど出せん」とつぶやいたのが聞こえてしまって、思わず笑ってしまったのだけれど。
 旅に出るということを快諾してくれたのが少し意外であり、そしてとても嬉しかった。

 それから二年間、私は必死に、旅に必要なことを勉強した。
 教会の神官のみんなにも、勉強のことを教えてもらったり、体力をつけるためのトレーニングに付き合ってもらったり、この時期いろいろと面倒を見てもらった。
 何かを学ぶということが、生まれて初めてとても楽しく感じられた。
 それに、旅をするのにはお金がかかる。今のうちから少しでも路銀を蓄えておくため、勉強の合間に私は働いた。

 やがて二年が過ぎ、私は父様の要求した条件を全てクリアした。
 路銀もそこそこ貯まり、私はいよいよ、旅に出る日を迎えた…。

 乗り合い馬車の停車場には、父様と、私と仲のいい神官達が何人か見送りに来てくれていた。
 神官のみんなは色々と私に励ましの言葉とかをくれたけれど、父様は終始無言だった。
 そうしている内に、もうすぐ馬車が出る時間になった。
 その時になって、なんだか急に胸の奥からこみ上げてくるものがあって…ちょうどその時、父様と目が合ってしまって。
 気が付いたら私、父様に抱きついていた。
 私はそのまま、「いままでずっと、育ててくれてありがとう」って言うと、父様にそっとキスをした。

「お嬢さん、行っちゃいましたね」
 見送りに来ていた神官の一人が、馬車が消えていった方向を見つめながらガルシアに話し掛けた。
「ああ…」
 ガルシアは、その神官とは反対側を見ていた。
「あいつには、一人前になるまで帰ってくるなと言ってある。ただダラダラと旅をされたのでは、今まで育ててきた私の立場がないのでな」
「しかし、マグナス神殿の一人娘が魔族に恋焦がれ、それを追って旅に出る、ですか。本神殿の連中が耳にしたら泡吹いて卒倒しそうですな」
 二年前の神官達を思い出してでもいるのか、彼はえらく楽しそうな口調だった。
「勝手に卒倒でも何でもさせておくがいいさ。結局のところ、連中はシステムの管理しかできず、希望の何たるかも知らない阿呆どもだ」
「えらく辛辣ですね、神殿長」
 ガルシアは天を仰いだ。
「私も、最近まではそうだったからな。娘と彼女に改めて教えられたよ」
「教えられたって、何をです?」
 一番年の若い神官の問いに、ガルシアは天を仰いだまま答えた。
「希望という言葉の意味さ」
 私の妻が生前、一番好きだと言っていた言葉だ、と、ガルシアは独りごちた。
「…知識だけでは、人は強くはならん、か…」

 馬車に揺られながら、私は思い出していた。風音さんと最後に飛んだ、あの時のことを。
 私達は教会に攻め込む前、雷雲を突き抜け、雲の海の上へと飛んだ。
 眼下には雲の海原。夕日に紅く染まりつつある大空と、陽光を照り返し山吹色に輝く雲海の狭間を、私と風音さんは飛翔した。
 何もかもが綺麗で、私は言葉を失った。
 私は、風音さんや「旅の演奏家」の言葉の意味をかみ締めていた。世界の大きさ、美しさに改めて心を奪われ、もっとたくさん、色々な所を飛んで世界を見て回りたいと思う気持ちが湧き上がった。
 そして、そんな気持ちが強くなればなる程、私が飛ぶための力も強くなっていくようだった。
 私はそんな気持ちに後押しされるように、風音さんに話し掛けた。

「風音さん、私…」
 ユーシアは一瞬ためらったが、風音の顔を見た瞬間、感情が爆発した。
「私、あなたを追い続けることに決めました!」
 それを聞いた風音は仰天して何も言えなくなっていたが、ユーシアは構わず続けた。
「いつまでかかるかわからないけど、私は必ず、自分の力で空を飛べるようになって、風音さんに会いに来ます。風音さんにいつでも会いにいけるようにして、一緒に色々な所を飛んで、一緒にいろいろな話をして…一緒に歌いたい!」
 ユーシアは自分の頬に、何かが伝い落ちるのを感じた。
「私、絶対に風音さんに会いに来ます。風音さんがいやだって言っても、私、絶対会いに来ます。父様や他の人が何て言おうと、私は会いに来ます。だから、だから…」
 ユーシアは、風音に抱きついた。
「もう自分のことを、孤独だなんて思わないでください。一人ぼっちだって思わないでください。たとえ風音さんが昔何人殺していたとしても、私は風音さんが好きです。私がそばにいてあげます。絶対、私は飛んできます。そのための力を手に入れます。だから…」
 涙にぬれた瞳で風音の顔を見上げ、叫んだ。
「私にあなたを、好きでいさせてください…!」

「…ベスト・オブ・大馬鹿者…」
 風音の目の端に、光るものが見えた。
「キミは僕の知る中で、一番の大馬鹿者で…最高に大切な人だ」

 彼女達は歌った。風の音色に合わせて。
 世界の奏でるバックグラウンドに合わせ、風音とユーシアの歌声が完璧なハーモニーを歌い上げる。
 紺碧色に染まりゆく空と、紅に染まった雲海の狭間のステージで、彼女達は歌い続けた。
 その歌声には、もはや寂しげな響きは微塵もなかった。

 私達は、その後に一つの約束を交わした。

 馬車の行く先には、色々な困難が待ち構えているだろう。
 死にそうな目にも、逢うかもしれない。
 でも、私は必ず約束を果たしに行く。風音さんの所に、私は必ず飛んでいく。
「そのための力を、私に貸して…」
 最後に一枚残った羽根を天にかざし、私はつぶやいた。

 それから十六年、風音さんとの出会いから十八年後…。


 全てがあの別れの時と同じだった。眼下には雲の海原。夕日に紅く染まりつつある大空と、陽光を照り返し山吹色に輝く雲海の狭間を、隼を思わせる流麗なフォルムの飛翔魔法の力場に包まれ、空気を切り裂き飛翔する。
 耳を抜けていく風が、歌っている。もっと速く、もっと高く、もっと遠くへ、と。
 その声に合わせ、ユーシア・ヴェーダも歌った。
 彼女の歌声は、風たちの歌と合わさり、溶け合っていく。
 世界が奏でる壮大なアンサンブル。
 彼女は今、間違いなくその一部だった。

『世界の歌に、キミの歌声を重ねてごらん』

 「彼女」は初めて会った時、そう私に教えてくれた。「世界」と共に歌うことで、「世界」と一体になることが出来ると。
 私はあの時のこと、忘れられない。
 あの時初めて、世界がこんなに広くて、大きくて、暖かくて、綺麗な物だって知ったのだから。
 
 いつしか、自分のものとは違う歌声が新しく加わっていることにユーシアは気がついた。
 つややかで、伸びのあるアルト。聞き覚えのある声。忘れたくても、決して忘れられない声。
 大切なものをくれた「彼女」の、懐かしい歌声。

「風音、さん…」

 「彼女」は、ユーシアに寄り添うようにして飛翔していた。
 誰よりも自由であろうとして、あらゆる束縛に抗おうとして、その結果彼女を想う者、心から慕うものさえも捨てざるを得ない宿命を背負ったという、業に染まりし漆黒の翼を持つ魔族。不死ゆえに永劫の孤独を強いられ、風の如く世界をさまよい続ける彼女は、十八年前のあの時にもユーシアに教えを残して一人旅立っていった。

「風音さん!」

 しかし、ユーシアは信じていた。あの時彼女が連れてきてくれたこの空と大地の狭間の世界にもう一度来ることが出来れば、「彼女」に必ず再会することが出来ると。
 「彼女」は別れの時に、一つの約束をしていた。
 『もしキミが、もう一度この空と大地の狭間の世界に来ることが出来たなら、その時にまた一緒に歌おう。今日このときのように…』と。

「約束、ちゃんと守ってくれたんだ…」

 ふいに、沈みゆく太陽の姿が歪んだ。頬を伝わり熱いものが流れていくのを感じる。

 ユーシアの全身を包み込むように展開された飛翔魔法の力場は、周りの気流を捻じ曲げてしまうため、発する声を著しく減衰させ伝わりにくくしてしまう。ユーシアは果たして自分の呼びかけが「彼女」に伝わったか少し不安だった。しかし、寄り添うように飛翔し続ける「彼女」と目が合ったとき、その不安は氷解した。
 「彼女」…風音もまた泣いていた。泣きながら微笑んで、こう言ったのだ。

「ありがとう、僕に会いに来てくれて…。ずっと待っていたよ、キミのことを」


 風音は、二百数十年ぶりに心から笑うことができた。
 十八年間待ちつづけていた彼女は、本当に自分のもとへと来てくれた。
 あのときの約束を、彼女は守ってくれたのだ。

 涙が止まらなかった。こんなに泣いたのは、かつて心を通じ合わせた青年を目の前で喪って以来かもしれなかった。
 しかし、今度の涙の意味は、あの時とは違う。
 風音は今、ようやく手に入れたのだ。あのときに失って以来、長きに渡って求め続けてきたものを。

 僕は、もう、一人じゃない…!


Fin…

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